問題を『はだしのゲン』1作のみの(暫定的)〝神話〟に回収してはならない 反戦・平和(第2信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


問題を『はだしのゲン』1作のみの(暫定的)〝神話〟に回収してはならない






 例年にも増して諸日程が密集した8月が終わった後も、さらにこまごまとした用事が続き、かねて気に懸かっている当ブログ『精神の戒厳令下に』各部門への新たなテキストのアップロードをはじめ、ウェブサイト『魂の連邦共和国へむけて』の更新やツイッターでの発信も遅遅として進まない。相変わらずの自らの段取りの悪さに、忸怩たる思い、しきりである。
 さらに今週半ばからは、再び、出向かねばならない場所があるという状況で、中・長期的に構想しているいくつかの作業のためにも、この秋のうちには、今春以来、混乱を極めた態勢の立て直しを図らなければ……と考えているところ。

 ともあれ、『週刊金曜日』8月30日号(957号)に小文《いま『はだしのゲン』を真に「守る」とは? ——松江市小中学校閲覧制限問題で市教委が〝撤回〟の判断》を寄稿するとともに、それと前後して日本ペンクラブに意見書を提出し、また先日来、当ブログおよびツイッターでもさまざまに私見を表明してきた、故・中沢啓治氏の『はだしのゲン』に加えられた一連の言論弾圧問題に関連して、若干の補足を施しておきたい。
 以下、とりあえず断章的な記述となってしまう不体裁を謝しつつ、取り急ぎ——。

 私が8月19日早朝、日本ペンクラブへ送達した上述の意見書に関しては、既報のとおり、同日昼、事務局御担当者から「言論表現委員会」へ転送した旨、連絡があったのみで、以後に新たな展開はない。
 当面、10月の同クラブ「京都例会」への出欠返信において、重ねて対応を要請するとともに、9月17日の「例会」の内容を確認して、さらに次の対応を検討する予定である。
 (なお、日本ペンクラブ「9月例会」そのものには、上述した別件の予定がある事情も含め、私は出席はできない)

 『週刊金曜日』8月30日号の小文《いま『はだしのゲン』を真に「守る」とは?》に関しては、何人かの方から共感・激励を中心とした御感想をいただいた。まことにありがたいことである。
 なかで印象的だったのは、少なからぬ方がたが「これはおそらく〝始まり〟にすぎない」「これからも頻繁にこうしたことが惹き起こされるのでは……」「こうしたことが繰り返されてゆくうちに、時代が明らかに逆行したという状況が作られるような気がする」といった意味の警戒感を強く表明されていたことだ。

 そのとおりである。

 8月30日、沖縄市安慶田(あげだ)の《くすぬち平和文化館》で開催したNPO「オーロラ自由会議」の企画——絵本『さだ子と千羽づる』朗読会+ミニ・レクチャー『ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ』は、幼い子どもたち130名ほどをはじめ、保護者・《沖縄市 2013 平和月間アクション》に関わる沖縄市関係者……等等の方がたの参加を得て、非常な盛況となった。
 その席で私が、今回の『はだしのゲン』問題に言及し、お伝えしたのも、今回の抵抗と広汎な支持・支援の拡がりが、国際的にも広く知られた高名な作品だからこそ可能となった一過性の〝奇蹟〟であってはならない、ということ。

 事は『はだしのゲン』1作の問題ではなく、また『はだしのゲン』だから陰湿・陋劣な言論封殺を(いまのところは、なんとか)はね返せた……といった特異的な「神話」に回収されてもならない。
 〝『はだしのゲン』ならばこそ、反撃できた〟〝攻撃を仕掛けた側は、選んだ相手が悪かった〟——のではなく、いつ、いかなる場で、誰のそれであろうと、「人権」「反戦」「平和」の主張を扼殺しようとする恫喝に対しての連帯が迅速に形成されるのでなければ、問題は防ぎ止められたことにはならない。今回、攻撃を受けた『はだしのゲン』すら、実は真に「守られた」ことになど、少しもなりはしないのだ。

 とりわけこの国は、「平和」を愛する「市民」を標榜する人びとのなかにすら、根強い事大主義・幇間根性が染みついた精神風土のそれである。
 すでに私が少なくとも20年以上前から繰り返し批判している宮崎駿監督に関し、先般、彼が「憲法9条」を〝肯定的に語る発言〟をしたとの一事をもって、〝あの宮崎監督〟もそう言ってるんだから、みんなも憲法を守ろうよ……という体の論調が拡がりを見せたとき、私は相も変わらぬこの国の大衆の没主体性に暗然としたものだ。少なくともこのアニメーション監督の〝作品世界〟が、真に「憲法9条」の理念と合致しているものなのかどうかについての主体的な検証を経てのそれであるなら、少なくとも、このような依存的共感だけはあり得ないのではないか……と、私は考えるのだが。

  私が宮崎駿氏に関し、明文化した最初期の批判としては小著『「新しい中世」がやってきた!』(原題『新しい中世の始まりにあたって』=月刊『世界』1992年4月号〜12月号連載=1994年/岩波書店刊)第8信「生と死とにわたるファシズム」第2節「祭壇に祀(まつ)り上げることによって完成する『差別』」、参照。
 また、宮崎駿氏と直接、対話しながら、その〝作品世界〟への疑念を展開したものとしては、『ユリイカ』1997年8月臨時増刊(青土社発行)特集「宮崎駿の世界」巻頭インタヴュー、参照。
 なお、同号に関連論攷として寄稿したエッセイ『圧制としてのファンタジー 「想像力のファシズム」の廃滅のために』は、小著『宮澤賢治伝説——ガス室のなかの「希望」へ』(2004年/河出書房新社刊)に収録されている。



 ちなみに、通常、私は、新聞・雑誌等へのエッセイ・批評の際は、いったんその指定枚数の数倍の草稿を制作し、そこから削減・圧縮を施してゆく、という経緯をたどることが多い(これを私自身、むろん、必ずしも好ましいことだとは考えていないが……どうしても、そうなってしまう)。
 今回も『週刊金曜日』8月30日号の小文《いま『はだしのゲン』を真に「守る」とは?》の制作に際し、紙数の関係から同様に割愛せざるを得なかった、発表形に数倍するテキストのなかに、前記——事が『はだしのゲン』1作の〝奇蹟〟にのみ回収されてはならない云云も含まれていたものだが、今後、状況の推移を見て、場合によっては他の削減分も、当ブログに「拾遺」として再録することを考えてはいる。

 なお、今回の前記小文の発表に際しては、出版元の汐文社の御厚意で、『はだしのゲン』第1巻74ページの1コマをカットとして使用させていただけた——のみならず、私自身のウェブサイト『魂の連邦共和国へむけて』に、この小文の情報を掲載するに当たり、なんとしてもここにも同一のコマを象嵌したい、との誘惑やみがたく、汐文社のサイトでアドレスを確認し、事情を説明してお願いする個人メイルを出したところ、もう20時に迫ろうとするう夜分だったにもかかわらず、わずか5分で承諾のお返事をいただいた。

 感謝に堪えない。
 






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by uzumi-chan | 2013-09-10 00:58 | 反戦・平和

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