ヴァイマール共和制よりも破滅的な崩壊 東京電力・福島第1原発事故(第194信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


ヴァイマール共和制よりも破滅的な崩壊

——2012年衆院選・都知事選の絶望〔2〕





 むろん今回の事態は、当初から心ある人びとがさんざん反対してきた小選挙区制が、その悪辣な本質を存分に発揮した結果とも、言って言えないことはない。風景が一夜にして、正真正銘のファシズム国家のそれに塗り替えられたという、この目の眩(くら)むがごとき末期的事態は。
 あの気の遠くなるようなふやけた閉塞感、透明な息苦しさに充ち満ちた1980年代後半の一時期、単に筋金入りの保守政治家たちばかりではない——百害あって一利なき、くだんの詐欺的似而非(えせ)選挙制度を積極的に支持、ないしは躊躇なく容認していた、この国のいわゆる〝進歩的〟ジャーナリストや大学教員どもの顔ぶれを検証してみることも、時間に余裕のある者にとっては、必ずしも無意味ではないだろう。〔註1〕
 そしてそれを見れば、この国——「戦後日本」における言論の不毛、職業〝知識人〟の愚劣さの、もしかしたら一端も把握できるはずだ。

 〔註1〕 幸い、現在ではインターネットによる情報蒐集が、むしろ安直すぎるほどに容易であるし、またその容易さは、インターネットの必ずしも抱負とはいえない「美質」のなかの最上位にランクされるべきものでもある。ただし、その使い手が最低限のメディア・リテラシーを具備していることを、第1の条件として。


 しかしながら、あの〝悪夢のようだが、これが現実だ〟選挙から、すでに1週間ちかくもの時間を閲(けみ)して、なおいまだに「不正投開票」疑惑を論(あげつら)い、そこに齧(かじ)りつくことで、この地獄のごとき状況に置かれた自らに自己麻酔をかけようとしている、あまりにも牧歌的すぎる〝陰謀論者〟たちの存在は、逆に真の懐疑的精神・批判精神にまで累を及ぼし、重大な問題に関してのそれらの力を決定的に殺(そ)ぐものだ。逆に彼らが、そうした意図のもとに、あえて「不正投開票」疑惑を弄(もてあそ)んでいるのでなければ、ただちにやめるべきである。〔註2〕
 何より……人びとは忘れたのだろうか? いまとなっては、結果としてこの無惨〝「戦後」民主主義〟日本の最終章の幕開けを告げるものにほかならなかった、あの2009年晩夏の衆院選とてもまた、同様のシステムで行なわれていたはずなのであり、そしてあのときはむろん、選挙後、今回のごとき奇怪な「不正投開票」疑惑に、人が時間とエネルギーとを奪われることはなかったのを。

 〔註2〕 そもそも、このたびの選挙に関しては、投票日のしばらく前からインターネット上に散見された、「票の書き換えを防ぐため、投票所に用意された鉛筆ではなく、書き換え不可能なボールペンを持参しよう」という奇妙な呼びかけのあたりから、ただならぬ不穏な空気が漲っていた。「出口調査」や独自の情勢分析(私は商業メディアによるそれらを、決して良いものとは考えないが)が、投票箱の蓋が閉まると同時に得意げに「当確」を打つ、近年のそうした選挙に限らず——大体、あの開票所のどこで、いつ、誰が、いそいそと消しゴムをかけながら(!)、1枚1枚の票に記された名前を書き換えるというのか? (たとえそれが「事後」の作業としても、だ)
 「鉛筆ではなくボールペンを持参せよ」というのは、こうした懸念を示す以外に考えられないが——よしんば「不正開票」が起こり得るとしても、それがこんな風に原始的に行なわれるというデマを信じ込み、それを疑うこともなく「拡散」する人びとが、残念ながらインターネット上の進歩的市民のなかに少なからず実在してしまったことは、今回の場合、この国の大衆の付和雷同性の特質として検討されるべき、それはそれで深刻な別の課題であるとすら思う。
 真に見据えなければならなのは、そんな小手先の次元の疑惑ではない。そして、この国の大衆「有権者」マジョリティの抱え持つ問題の井戸の深さは、今回の選挙結果が〝鉛筆の文字は、消しゴムで消されて書き換えられる〟といった「物語」にすりかえられた場合、決定的に隠蔽され糊塗されてしまう。


 もとより小選挙区制は、過てる悪しき制度である。
 だが、複数の分析結果が、その制度の弊を是正しても、今回の選挙結果の大勢が動かないものだったことを示していたはずだ。何より、小選挙区制のハンディ、悪党どもに恩典的に与えられたアドヴァンテージをはね返すだけの(程度の)力が、危機意識が、この国の大衆には依然として——そしてついに——決定的に欠けていたということだ。
 この国の「有権者」大衆のマジョリティは、平然と、安倍晋三・自民党や石原某・橋本某らのファシスト政党を、いそいそと選択したのだ、と考えることが、明らかに現状では合理的である。

 それも、東京電力・福島第1原発事故の後で、なお! 
 ——この事実の救い難さには、何度、絶望しても絶望しすぎることはない。

 民主党政権を存続させることは許せなかった(それは私も当然だ)ものの、それ以上の構造悪、この国を全領域・全位相・全次元で滅ぼし、幕を引く勢力には、嬉嬉として、自らの生殺与奪の権を委ねたということだ。戦後史を通じ、アメリカの原発資本のなすがまま、この国土に54基の原子炉を林立させてきた元兇たる、正力松太郎〔註3〕や中曽根康弘〔註4〕たちの悪を、(おそらくは)知ることもなく。

 〔註3〕 正力松太郎(1885—1969年)なる、 “日本原子力政策の父”でもあり、また「讀賣ジャイアンツ」を創設した“日本プロ野球の父”でもあるらしい官僚・政治家の悪行については、小著『原子野のバッハ——被曝地・東京の三三〇日』(2012年、勉誠出版刊)の随所に出てくるので、参照。
 なお、その【補説ノート】ではなく本文の方は、当ブログを底本としている同書ではあるが、このままではページ数が倍近くの1000ページ以上になるという事情から、泣く泣く収録を見送った数十篇のテキストのうち、〔東京電力・福島第1原発事故〕第61信《脇谷は「捕球」していたのか?》http://auroro.exblog.jp/12461846/
と、続く〔東京電力・福島第1原発事故〕第62信《「正義」という概念の、欠如した国》http://auroro.exblog.jp/12461945/とは、とくに私が愛着を覚える2篇である。
 そして先般、2012年11月1日の「日本シリーズ」第5戦の4回表に、またまたこのプロ野球団をめぐる、このたびは〝明らかにシリーズの流れを変えた〟〝世紀の大誤審〟騒動が起こった際にも、私は改めて前記2篇のテキストを思い起こしたことだった。
 当たってもいない投球に当たった「演技」をしつづけた結果、くだんの球団監督・原辰徳の要求を受けた球審・柳田(やなだ)浩一の異様な「判定」変更を引き出し、思惑どおり、日本ハムの好投手・多田野数人を「危険球退場」に追い込んで見せた、讀賣の捕手・加藤健の卑しさは、2011年4月20日、全出場者が「東北大震災の犠牲者追悼のため」喪章を付けて臨んだと称する対阪神戦で、捕球してもいないフライを捕球したと「演技」しつづけた同球団の二塁手・脇谷亮太の醜悪ぶりと、完全に重なる。
 どこまでいっても人倫に悖(もと)る、まことにもって薄汚い球団である。 
 これを「たかがプロ野球の話ではないか」などと、言い棄てていてはならない。事は、単に娯楽としてのプロ野球の問題ではない。これこそが《「正義」という概念の、欠如した国——日本》の実相なのであり、虚偽に塗り込められた東京電力・福島第1原発事故を経てなお、かかる選挙結果が現出する淵源なのだ。「たかがプロ野球」ですら、かくも人間的に破綻している国。かくも人間的に破綻しているから、プロ野球すら、虚偽と欺瞞に満ちた国。
 
 〔註4〕 中曽根康弘(1918年生)の悪行と、この男を礼賛する国策番組の「石が浮かんで木の葉が沈む」悪辣ぶりに関しては、前出『原子野のバッハ』第124章「いくらなんでもひどすぎるNHK『ニュースウオッチ9』中曽根康弘インタヴュー」(p.352〜356/同章【補註ノート】は p.369)を参照。


 それにしても、「自民政権奪還」「300議席超え」を、〝選挙特番〟開始早早、いそいそと告げる〝公共放送〟アナウンサーたちの声の、なんと浮き浮きと弾み、楽しげだったこと! 
 それら「制度圏」メディアから、あらかじめ〝事前学習〟としてたんまり吹き込まれ、教えられていたとおりのことを、マイクを向けられ得得とうそぶく、千篇一律・万古不易の「街の声」たち! 
 自分たちがしこたま被曝し(被曝させられ)、すでに2011年3月11日までの放射線量に数百倍、数千倍する〔註5〕被曝を強いられながら、それに露ほども気づかぬげに、いそいそと口パクでコメントする彼ら。〔註6〕

 〔註5〕 この数値は、旧・文部科学省発表の『環境放射能調査研究』第51回(2008年度版)の数値をもとにした仮定であり、実際はさらに多いかもしれない。詳細は、小著『原子野のバッハ——被曝地・東京の三三〇日』(2011年3月/勉誠出版刊)第152章「『暫定』『規制値』の高さの凄まじさ」(p.436/同章【補註ノート】は p.452~453)、同・第153章「放射能汚染をめぐる日本の状況は、その無知と無関心とにおいて絶望的である」(p.439/【補註ノート】同前) を参照。なお、これの初出形は、当ブログにある。

 〔註6〕 これら「 街の声」の洗脳状態については、小著『テレビと戦う』(1995年/日本エディタースクール出版部刊)ですでに指摘しているが、いまどのページか、探している時間がない。後ほど、追記で明示する。
 それにしても、TBSが自社の広報誌で、私にこのような「メディア批判」を〝フリーハンド〟で連載させていた時代もあったとは……! 


 2009年初秋、私は以下のように、民主党政権樹立後の日本が、かつてナチスに道を開いたドイツと同様のプロセスを辿(たど)ることを懸念した。

 ――私自身、かつて一昨年の晩夏、鳩山由紀夫・民主党政権が発足した直後、当時、暮らし始めたばかりのロンドンの地から、以下のように1篇の末尾を締め括ったエッセイを日本に送稿したことがあった。
 《……そして、とりあえず誕生した、可憐極まりないこの理想主義の政権の帰趨は、ひとえに国民がそれを、批判精神を手放さず育て、守り得るかどうかに懸かっています。結局、ナチズムの「露払い」となったヴァイマール共和国の轍を踏まないためにも。》
 (山口泉「コスモスのごと可憐な『無血革命』に寄せて/『週刊金曜日』2009年10月2日号=769号)
 (前出『原子野のバッハ』第52章「日本の不幸、菅直人」/2012年、勉誠出版刊


 いかにも、実は自民党長期政権のみでは、それ実はでもなお、この国がいきなりファシズムの最終形に行き着くまでには、まだ一定の間があった。
 その意味でも、千載一遇の機会を自らの愚かしさと卑しさとで、無能と道義のなさとで、むざむざ扼殺し遺棄した、鳩山由紀夫・菅直人・野田佳彦らの罪は、比類なく重い。
またむろん、彼らが、枝野幸男や細野豪志らとともに、東京電力・福島第1原発事故における、人びとへの直接的な加害者であることは、再三、語ってきたとおりである。
 結果として、いまや日本は、1934年当時のヴァイマール共和国に近づきつつある。かの国が第1次大戦後、1919年から僅か15年だった「戦後」が、この場合、日本では67年に及んだというだけの話だ。
 むろん、フリードリヒ・エーベルトやパウル・フォン・ヒンデンブルクを、鳩山や菅、野田と同列に論ずるのは、何重もの意味で誤りであるし、そもそも現状の日本のファシズムは、かつてのドイツ第三帝国とも大日本帝国とも異質の破滅へと驀進するものである可能性を抱え持つにせよ。

 そのとおり。
 「戦後日本」の崩壊は、ヴァイマール共和制の崩壊と、到底、同列に論ずることができない。
 その理由は、いくつも挙げられる——。天皇制の問題。アメリカの存在……。
 だが現時点で、日本の現在の危うさを先行する歴史上のいかなる国家とも質的に分かつ最大の違いは、むろん東京電力・福島第1原発事故という、人類史上最大の核災害——そして熱核兵器の実戦使用を別にするなら、人類史上最悪の核犯罪——という事態である。
 いま、ここから始まる安倍晋三政権は、東京電力・福島第1原発事故という制御不能の核暴力装置をはじめとして、そこから東京電力・福島第2原発、東海村、六ケ所村……と、連鎖反応的に危殆(きたい)に瀕してゆくかもしれない核施設のもたらしかねない惨禍により、文字通り、全人類と地球を滅ぼす可能性すら抱え持ったファシズム国家を樹立しようとしているのだ。

 すでに憲法「改正」プログラムが臆面もなく推し進められている。繰り返し、記してきたとおり、「原発推進」と「憲法改変」は、この野卑なファシズム政権の根幹を成す、一種「宿願」めいた暴力的欲望である。
 いま、この「勢い」のまま突き進むのが最善であることを、ファシストたちは知っている。知り尽くしている。衆議院の議席数3分の2というのは、そうした数字にほかならない。
 そして何より重大なのは、遠からず、憲法「改正」国民投票が企図されることとなったら——この国の、思考停止した、絶対受動性の「マジョリティ」は、まぎれもなく「改憲案」に、嬉嬉として賛成票を投ずるだろうことだ。ろくろく、その案文を読むことすらせず。

 ……だが、その時代はくるだろう。人間のすべてが、〝UFOを見てしまう〟時代は——。
 憲法改変動議を、政権政党が周期的に、飽くことなく提出しうる権限をもっているうち、とうとうどんなに聰明な国民の心のなかにも、反対しつづけることへの飽きが生まれ、一度ぐらいはその法規も変えてみたらどうだろうかという誘惑が頭をかすめるように。
 (山口泉「UFOを見ない人」/『星屑のオペラ』=1985年、径書房刊=所収。初出、季刊『いま、人間として』第8巻=1984年、径書房発行)


 かつて私がこう、記してから、28年半が過ぎた。
 そして、いま——ついに、そのときが来ている。

                         〔以下、続稿〕


 
【付 記】
 当初から懸念しないではなかったものの、久しぶりにブログに載せることにした本稿も、当初の前・後篇の予定を大幅に超過し、3〜4回に亙(わた)る見込みとなってしまった。前・中・後篇と、とりあえず謳うことも考えたが、予期よりさらに長くなる場合を前提に、とりあえず本篇を〔2〕とし、併せて、先行した前篇を〔1〕と改称しておくこととする。
 私事だが、目下、ゆくりなくも人生空前の重層的忙しさに陥っている都合上、〔3〕以降は、気長にお待ちいただければ幸いである。……とはいえ、むろんのこと、遅くとも1月中には本稿の全体をアップロードしたいとは思っているのだけれども。







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by uzumi-chan | 2012-12-22 12:08 | 東京電力・福島第1原発事故

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