山口泉「歴史の著作権は誰のものか?」全文〔5/5〕 ——追悼・李小仙オモニム 韓 国(第6信)
2011年 09月 21日
なぜ私は、あの国と、そこに連なる人びとについて、
倦むことなく書きつづけるのか?
むろん、彼らが素晴らしいから。
しかし、それだけではない。
——私が書いているのは、彼地と彼らのことだけではなく、
実は、「この国」のことなのだ。
いまだ、真の「連帯」と「友愛」というものの根づいたことのない、
この日本という荒寥たる国の……
山口泉「歴史の著作権は誰のものか?」全文〔5/5〕 ——追悼・李小仙(イ・ソスン)オモニム
いかにも、現実の推移を眺めてみるかぎり、あたかも「歴史」とは生者のものでしかないかのようだ。
いっさいの不正は、欺瞞は、そして暴虐は、その被害を記憶する者の最後の生き残りが、しかも年老い、死に絶えてゆくことによって、そっくり隠蔽され、遺棄され、忘却されてゆくしかないかのようだ。
「歴史」は、いったん生者によって占有され、改竄されてしまうと、それきり糺されうる機会を失ってしまうと——あれら多くの悪しき生者たちは、信じて疑うことがないかのようだ。この誤謬に満ちた現実は、揺らぐことがないとも見える。
だが——歴史の「著作権」は誰のものか? それは何より、まず真に戦った死者たちのもの、人間の自由と解放、社会の平等のために闘った、倫理性の裏打ちを持つ死者たちのものでなければならない。
日韓の「民衆連帯」について語ることは、とりもなおさず日韓の「民衆連帯」の不可能性について語ることである。
けれども——
かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
(宮澤賢治『青森挽歌』)
「良心の国際連帯」とは、かつて私自身が、「被爆」「核廃絶」の問題をめぐって、日本と——ほかならぬアメリカ合衆国の人びととのあいだにすら、なお「連帯」が成立することを暗示する概念として書きつけた言葉である(拙作『「良心」の国際連帯のために』——英訳 “Towards an International Solidarity of Conscience” 1994年/絵本『さだ子と千羽づる』英語版・解説)。
しかしながら、それは歴史的経緯においては、明らかに別の意味で——と同時に、実は事柄の最深部においてなら、必ずしも異質ではない意味で——「日韓」「日朝」民衆のあいだにも、本来なら、生成されねばならない事柄にほかならない。
いま、狭隘(きょうあい)なナショナリズムや民族主義を横断して人間が連帯しうるような普遍的な概念は、もはやあたかも存在しないかのごとき俗論が、とりわけ一九八九年以降、全世界を覆い尽くし、染め上げつつあるけれども。
すでに紙数が尽きた。
これは私の生涯の主題の一つであり、それをめぐっては、1999年3月、創刊される予定の季刊総合雑誌「批判精神」(オーロラ自由アトリエ)の私の連載エッセイ『冬の言葉』でも、持続的な考究を加えてゆく予定である。
〔この項、了〕
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by uzumi-chan
| 2011-09-21 10:20
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