“「被災地」の気持ちを考えろ”ファシズムの行き着く果て 東京電力・福島第1原発事故(第132信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために――


“「被災地」の気持ちを考えろ”ファシズムの行き着く果て





 前項から取り上げている、鉢呂吉雄・前経済産業大臣の、問題とされた2つの発言について——。

 前日8日に東京電力・福島第1原発周辺を視察した翌9日の記者会見での「死の町」会見に関しては、“「被災現地」の人びとの心情を無視した残酷で心無い発言”と難ずる一方、この言葉の論(あげつら)い方は、全体の文脈から特定の用語のみを切り離し、“ためにする”「揚げ足取り」的な攻撃の結果としての犠牲となったとする見方も成立し得るとする声がある。
 それに対し——その後から問題とされた「放射能」発言(とでも呼ぶしか言いようがないほど、精確な情報が乏しい)については、こちらは擁護のしようがない、とする立場が強い、という印象を受ける。

 まず、当初の「死の町」発言を攻撃する勢力に対しては、むしろ原発現地の苛酷な状況を率直に語った発言であるにもかかわらず、真にその状況に責任を負うべき側ではなく、実態に衝撃を受けた、そのままの思いを述べた鉢呂氏を攻撃するのは誤りであるという見解に、私もほぼ同意見である(ほんの少しだけ、「配慮」には欠けたかもしれないにせよ)。
 また、一方——上述のとおり、その発された状況はもとより、内容そのものについてすら(こんなに短いはずの発言であるにもかかわらず)相当数のメディアがすべて微妙に異なった報道のしかたをしているという、その根幹において曖昧さを残す問題ではあるにせよ——おそらく“そういった内容の発言”があったことは間違いないという前提から判断するなら、それが妥当なものであるはずはない。

  こちらは少なくとも、「死の町」発言とされる談話のような、記者会見での正式な意見表明ではない。鉢呂氏が福島県民、ないしは国民一般に向け、自らの見解として述べたわけではないし、またそうするはずもない。その意味では、たとえば3月11日の大地震・大津波直後の石原慎太郎・東京都知事が公言した「これは奢れる日本人への天罰だ」といった発言とは、まったくその性格を異にする。
 ただし、「公人」たる閣僚がどのような形であれ、メディアの居合わせる場で為された発言である以上、たとえどんな意図に基づくにせよ、それが看過されることは難しい。



 その語られた状況と、伝えられ方とに関する状況の不分明さが依然として残るという留保のなかで、なお、あえて判断を下すとするなら、基本的にはそれは好ましからざる性格のものではあったろう。
 その点は、私も否定しない(私自身も、それが伝えられている内容に近いものだとするなら、「最弱」の被差別者に対する差別への結果的加担という意味では、最終的には拒絶すべき重大な問題点を含んではいると考える)。

 しかしながら、ここでの問題は、全体として少なからず多岐にわたっている。
 さしあたって3つの問題が、今回の鉢呂吉雄・前経済産業大臣の発言をめぐってのマス・メディアによる輿論(よろん)操作には潜んでいるように、私には思われる。

 第1に——最も広汎な「国民輿論」的次元において、「死の町」発言に対しても「放射能」発言と同一視した攻撃がなされ、個別の発言の意図するところを内在的・分析的に検証することなしに“人倫を踏み外した新閣僚の妄言”として唾棄してしまう傾向が、少なくともメディアの表層において支配的である結果、福島現地の被曝被害の実情が無限に隠蔽され続け、それを率直に伝えようとする行為自体に、並なみならぬ「自己規制」が作用するきっかけとなる懸念が小さくないこと。

 第2に——仮に鉢呂氏が、単に軽率であるという次元を超え、“人倫を踏み外した”人格の持ち主であったとしても、新閣僚が就任後旬日を経ずしての現地視察の後、こうした常軌を逸した妄言を口走るきっかけとなるような未曾有の放射線汚染の現実が、一方でまぎれもなく継続的に存在しており(むろん、それは帰京した鉢呂氏が記者たちに「放射能を」云云というような汚染状況だったという意味ではない)、その深刻な現実は、鉢呂氏の責任を追及し辞任させたところでむろん解決する次元の問題であるはずはない……にもかかわらず、現状の輿論・大衆感情のかなりの部分が、鉢呂氏に対する批判・憎悪へと意図的に振り向けられることによって「ガス抜き」され、結果として福島現地の深刻な放射線被害は、逆に“「被災地の」「被災者の」気持ち”に寄り添う演技をする人びとの鉢呂氏攻撃に遮断される結果、ますます論及不可能の絶対的な判断停止領域へと追いやられてしまう可能性があること。

 第3に、上記2点の問題を含め、現在以降の日本においては、本来、現実の惨害に苦しむ個別の当事者のそれとすらも、必ずしも同じとはいえない、一種抽象的で絶対的な概念としての“「被災地の」「被災者の」気持ち”という管制コードが、野党やマス・メディアによって恣意的に持ち出され、威嚇的に行使されることにより、東京電力・福島第1原発事故をめぐって重大な言論統制と判断停止が進む状態がますます増大する危険に道を開いたこと。

 とりわけ第3の点は、ある種、明瞭なファシズムであり、言論統制そのものにほかならない、甚だしい危険性を帯びている。
 たとえば十五年戦争当時にも、政府・大本営から為される「銃後」の社会への管制として、それは鞏固(きょうこ)に存在した。

 ——ただし、これを仮に“「被災地」の気持ちを考えろ”ファシズムと呼ぶとしても、それは本来最も苛酷な惨害を被った「被災地」「被災者」の責任であるはずはなく、そうした惨害・悲劇をすら、邪(よこしま)な意図のもとに利用しようとする者たちの新たな罪科であることは、言うまでもない。


 (……何度でも、言う。

 それにしても、東京電力・福島第1原発事故の「被災地」とは、どこなのか? 

 東京電力・福島第1原発事故の「被災者」とは、どこまでの範囲を指すのか? 

 これは原子力発電所事故なのだ——それも“超チェルノブイリ級”の。

 福島県浜通りの一角で——1説によれば——広島級原爆150発が爆発した以上の放射性物質が噴き出し、飛散しつづけているのだぞ)



 上述のような諸問題に照らしたとき、私は鉢呂吉雄氏は、本来、くだんの2発言——とりわけ曖昧かつ不分明の極を極める「放射能」発言について、自分自身の口から、精確に、それが為された際の状況と発言内容を明らかにし、その上で(その必要があると判断するなら)謝罪すべきは明確に謝罪し、またなぜそのような言動に到ったかについても、徹底した自己分析を表明すべきであったと思う。
 もちろん、それを容易にさせないまま、曖昧なうちに、ただ氏本人の辞任だけで事態を収拾しようという思惑が野田閣内にあったことは想像に難くない。だが、結果としてそれは政権としても明らかなマイナスであったし、また鉢呂氏自身にとっては重大な状況判断の誤りを上塗りしたのだという気もする。

 何より、東京電力・福島第1原発事故という空前の危機的事態の渦中にあって、その深刻さをすべての人びとにより迅速的確に伝えるという観点から見たとき、鉢呂氏が上記のような自己分析を真摯に吐露することには、単に自らの「責任の取り方」という以上の、いくばくかの——場合によっては相当程度の——意味があったはずだった。

 なんとも釈然としない、曖昧な問題について綴らざるを得ないという、この状況それ自体が、実のところ私にとっても憤(いきどお)ろしいのだが……。
 それでもなお、現に「辞任」が為されている以上、なんらか「放射能」云々に類する発言があった**と仮定しての、以下は考察である。

 ** 昨日、一昨日あたりから散見され始めている、当の「放射能」発言全体がそもそも捏造であるとする見方には、とりあえず私は与(くみ)しない。
 もしもそれらすべてが根本的に「でっち上げ」だったのだとすれば、 むろん 鉢呂氏は、自らに着せられた汚名と正面から闘うべきだ。
 言っておくが、いかなる背景事情があるにせよ、事実無根の誹謗中傷に対して自らの「権利」である以上に「義務」ともいえる抗弁をしなかったのだとするなら、実はその責任は、少なくとも「放射能」発言そのものなどより比較にならぬほど重い。
 なぜなら、それはこれまで発生したすべての「冤罪」被害者への不当な圧力に対して、鉢呂氏もまた結果的・間接的に加担することになるからだ。 



 私は——作家として(??)——目下、言語道断とされる「放射能」発言に到った鉢呂氏の「心の働き」を、ある程度、忖度(そんたく)できないでもない、という気がしている(繰り返すが、それに賛同する、という意味では、もちろんない)。

 これについて、事項で述べる。

                           〔この項、内容的には次項に続く〕






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by uzumi-chan | 2011-09-16 14:30 | 東京電力・福島第1原発事故

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