「安全」性を「安心」感と、すり替えるな 東京電力・福島第1原発事故(第95信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


「安全」性を「安心」感と、すり替えるな




 テレビのニュースなど、なるべく観ないに越したことはない。
 重要なものほど、その内容は嘘ばかりなのだし、他の何事かをしながら、漫然と聞いているような場合ですら、そのあまりのひどさ、程度の低さに、ついつい、何かしら書かずにはいられなくなってしまうからだ。
 このブログなるものについてすら、他の草稿メモが山積している状態だというのに。

 つい昨日も、止せば良いのに食事中、間違ってテレビ朝日『報道ステーション』の画面をそのままにしていたら、このかん、この番組の「言論」の質をひときわ低め続けているレギュラー・コメンテーター、朝日新聞「NY支局長」経験者という五十嵐浩司が出てきて、例によっての妄言を聞かされる仕儀となった。

 親米の日本式ネオコンのサンプルともいうべきこの朝日新聞「NY支局長」経験者の発言は、ほとんどすべてが疑問に満ち、逐一、批判してゆかなければならないといった性質のものなのだが、昨夜の同番組でも呼吸するように謬見を垂れ流すその傾向はいつもどおりで、たとえば東京電力・福島第1原発事故による放射線被害をめぐり、教育現場での保護者の不安が高まっているというニュースに被せて、こんなことをうそぶく。

 “問題は『安全』かどうかということなんじゃなく、『安心』を、人は求めているんじゃないか。『安全』だと言われても不安で、『安心』させてもらえなければ駄目だということなんじゃないか”(大意)

 例によっての、したり顔で語られたこれは、このかんしばしば耳にする「安全」と「安心」なる概念を弄ぶ詭弁の典型であり、そのなかでも最も無意味な1つでもあるが——と同時に、言説とは恐ろしいもので、こんな空疎な言語遊戯のなかにすら、五十嵐自身の“思想”の特質が如実に滲み出てもいるのだ。
 
 “問題は『安全』かどうかではなく、『安心』”なのか? 
 “『安全』だと言われても不安で、『安心』させてもらえなければ駄目だ”ということなのか? 

 違う。

 一体、いま誰が、真に「安全」であることを証明しているのか。

 多年にわたって繰り返され続けてきた警告を無視した揚げ句、発生した取り返しのつかない事態に際し、測定されていた放射線値データを隠蔽し、被曝許容量の基準値をなんの根拠もなく引き上げ、無能かつ良心のかけらも持ち合わせぬ「御用学者」を動員して非科学的な宣撫工作を国民に対してする、株式会社東京電力や日本政府、そしてマス・メディアの——誰が? 

 すべての制度圏言論は、ただひたすら予定調和的に設えられた「安全」なる結論と整合性を捏造するため、情報操作を重ねているだけではないか。
 そして国民大衆も皆、そうした彼らの欺瞞を濃密に感ずるようになってきているからこそ、彼らの言う「安全」など、実は少しも「安全」ではないこと気づき始めているというのが、実情なのではないか? 

 にもかかわらず、五十嵐のこの言い方は何だ? 
 実際はすでに「安全」なのに、まだ大衆は情緒的に「安心」できないのだから、無知蒙昧な彼らを慰撫し、「安心」させてやることもまた政府その他の責務であるのではないか……とでも言いたげな含意(コノテーションconnotation)に満ちた、民衆蔑視そのものの、この言説は?

 放射線被曝の現状は実はなんら問題なく、間違っているのは民衆の側であり、課題は聞き分けのない民衆のわがままを丹念に手当してやることだけだとでも、五十嵐は言いたいのか? 

 実は東京電力・福島第1原発事故は絶望的な深刻さを時を追うに従って深めており、政府はむろんのこと、自治体もまたその当然の任を、まったく果たしていない現状下、一人一人が自衛し、また相互に連帯して情報交換してゆくしかないというぎりぎりの瀬戸際で、いま人びとは、自分たちの置かれた状況が到底、「安全」なものではないことを冷静に、客観的に、よく承知しているからこそ、当然の「不安」に戦(おのの)いているのだ。

 実際になんら「不安」のない状況であること、真に「安全」であることが客観的に証明されているのなら、人は論理的判断の帰結として「安心」することが可能なのであり、「安心」そのものをア・プリオリに、一義的に求めてなどいるわけであるはずはない。

 にもかかわらず、“『安全』かどうかではなく、『安心』を求めている”とは、なんという本末転倒の、問題のすりかえか。
 民衆蔑視か。

 人は「安心」を求めてなどいるわけではない。
 人は「安全」を求めているのだ。
 ——現在の状況が「安全」であることの証明を求めているのだ。
 (「安心」とはあくまで、その「安全」の結果として、一人一人が主体的に納得し、醸成すべき結果にすぎない)

 にもかかわらず、最もそれに責任を負うべき政府や、また自律的にそれを報ずるべきマス・メディアが虚偽にまみれているからこそ、人は結果的に「不安」に陥らざるを得ないのではないか。

 五十嵐は、相変わらず謬見に満ちている。
 そしてメイン・キャスター古舘伊知郎の思考の極度の浅薄さとも相俟って、テレビ朝日『報道ステーション』の言論の質は、ますます低下している。

 客観的「安全」性を、主情的な「安心」感の領域へと溶解するな。
 「安全」の挙証責任の問題を、被害者民衆の「安心」への自助努力の問題へとすり替えるな。





当ブログのすべての内容の著作権は、山口泉に帰属します。
当ブログの記事を引用・転載されるのは御自由ですが、出典が当ブログであることを明記してください。
当ブログの記事を引用・転載された場合、ないしは当ブログへのリンクを貼られた場合、お差し支えなければ、その旨、山口泉まで御一報いただけますと幸いです。

山口泉ウェブサイト『魂の連邦共和国へむけて』は、こちらです。
  http://www.jca.apc.org/~izm/

by uzumi-chan | 2011-06-08 01:21 | 東京電力・福島第1原発事故

作家・山口泉のブログです。


by uzumi-chan