いま「被災者」とは誰のことか? 東京電力・福島第1原発事故(第94信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


いま「被災者」とは誰のことか? ——菅内閣への不信任決議案否決をめぐって〔後篇〕




 ……恐ろしいことに、もはや何をしても手遅れだという東京電力・福島第1原発事故の現実の途方もない超「政治性」ともいうべきものが、「政治」一般の主体的な能動性の限りない価値低下を落ちるところまで落とし続けているがために、実のところ、少なからぬ人びとにとって、ここまで来たら、もう何がどうでも良くなりつつあるという、痙攣的な終末観が確実に社会を涵し始めている。

 今回の内閣不信任案をめぐる経緯は、いまや既存の「政治」が、この進行中の破滅に対して、まったく何一つ為し得ないし、しかもそれどころか、何かを為そうとする意思すら、完結した形では持ち得ないという事実の、凄まじいまでの露呈のようだ。

 揚げ句の果て、現に国会に提出された内閣不信任案の決着が、密室での談合と、中学生でももう少しましな文書を作れる(と言ったら中学生に失礼なほどの)お粗末な箇条書きメモへとすり替えられ、その「解釈」をめぐって、弁護士資格を持つ閣僚らをまきこんでの論争が、だらだらと続く……という醜悪な仕儀となっているのだが——。

 そもそも現存内閣を不信任する、という行為が、内閣総理大臣自身の擬似的な、ないしは偽装された「辞任予告」に影響を受けるということ自体、本末顛倒ではないか。
 彼我のあいだにあまりにも構造的な隔絶がありすぎるため、形式的な比較は意味を成さないものの、チュニジアに踵(きびす)を接して、今般の中東の状況の発端となったエジプトの政変に対し、ムハンマド・ホスニー・ムバーラクの「即時辞任」が最後まで要求され続けたような論理的一貫性は、この情緒と情実の国・日本には望むべくもない。

 「菅直人政権では駄目だ」という事実の絶望的意味を、民主党内で一時、不信任案に同調した人びとは、どこまで理解していたことになるのか。
 自分たちの愚劣極まりなかった党代表選の失敗の尻拭いを、あろうことか自民党や、さらには公明党(……!!!!!!!!)の力すら借りてしなければならない泥沼状態に立ち至った現状の意味がいささかなりとも判っていれば、“まだ四国八十八ヶ所の札所(だか、霊場だか)巡りも後半を残している”に始まった、情緒的かつ、さほど巧妙とすら言えぬ水準で言質を取られまいとした菅直人の演説に手もなく丸め込まれ、最後の光明だったかもしれない内閣不信任案を、たちまちにして、弊履のごとく葬り去るはずはない。

 言っておくが、菅直人政権を不信任するということと、自民党政権に復するということとは、絶対に同義ではない。その点は、ほかならぬ自民党総裁・谷垣禎一をはじめとする「野党」勢力も当然の前提として認めているではないか。
 むしろ、菅直人政権を適法的に倒すこと、それこそが、最悪の形での自民党政権復活を阻止する——ないしは、それ以上におぞましい新たなファシズムの招来を防ぎ停め得たかもしれない唯一の道だった。

 ——私が、民主党政権成立以来、最も懸念していたのは、ヴァイマール共和国からナチズムへ向かった、ファシズム生成の歴史の再来だった。
 だが現状では、おそらくそこにすら到り着かない手前に、最も高い可能性で考え得る、中・長期的なスパンでの「核破滅」の始まりがある。
 東京電力・福島第1原発事故が絶望的なのと見事なまでに相同形を成して、日本の政治もまた、完全に絶望的である。

 厳密に言うなら「菅直人政権では駄目だ」というのは、すでに正しくない。
 実は「菅直人政権では駄目だった」のだ。
 その結果として、いま日本は破滅に瀕している。

 東京電力・福島第1原発事故を収束する術は、もはやなく、おそらく日本は今後半世紀以内に(ほぼ)確実に滅びるだろう。

 菅直人が厚顔無恥に政権を握り込み続けていることは、これまでの経緯からして、フランスやアメリカ等、「核大国」の(その倫理的・道義的本質はともあれ、いま唯一、一定規模の核事故に対してはそれなりの収拾のノウハウを持っている可能性がある、と喧伝される——)最終危機対処の援助も望み得ない状況が、さらに手遅れの上塗りをするまで、続くことを意味する。

 どうして、ここまで異常な事態が進行しているのか。
 誰が、これをプロデュースしているのか。
 私の知る限り、かつて一度もなかった状況だ。

 (——私自身は、もっとはるかに早い段階から、菅直人政権に対し、アメリカがもっと直接的・暴力的に介入してくる可能性も想像したのだったが……。
 ビン=ラディン問題ではあのような“パフォーマンス”を行なっても、それでも共和党政権と民主党のそれとの違いはあるものだろうか……)

 「TOMODACHI作戦」など、東京電力・福島第1原発事故の前にはなんら意味を成さない(現に原子力空母カール・ビンソンは、メルトダウン直後、作戦を中断し、すみやかに沖合に逃れたではないか)。
 最大の(?)同盟国・日本を見棄てることによるデメリットとメリットとを計量したとき、綜合的に判断してメリットの方が大きかったということか。
 それとも、株式会社東京電力や菅直人政権のあまりの無能ぶりの結果、福島第1原発事故が、アメリカの予測をも上回り、あまりにも短期間に致命的な段階にまで、進行してしまったということか。


 ただし、私は「永田町は被災地(被災者)の気持ちを考えよ」という俗論には、この世の終わりまで、絶対に与しない。

 なんとなれば、いま東京に暮らさざるを得ないこの私自身も、まぎれもない被災者だからだ。
 東京電力・福島第1原発事故という、人類史上空前の核被曝の——。
 東京電力・福島第1原発事故からすれば、東京もまた、歴然たる被災地である。
 (少なくとも、関西以東の日本の全地域と同様——)

 にもかかわらず、正当な菅直人政権批判をすら、二言目には「被災者の気持ち」「避難所の視点」という常套句を繰り出し、徹底的に言論封殺しようとする——たとえばテレビ朝日『報道ステーション』の古舘伊知郎あたりの「床屋政談」(と言っては、「床屋」とそこに集う客に失礼であろうが)は、何? 

 二言目には「被災地の人はどう見ているのでしょうか?」と、しかつめらしく“被災地の論理”を持ち出せば、すべてを判断停止の現状全肯定に持ち込めるという意図が露骨に透けて見える古舘の皮相で雑駁な没論理的慨嘆に、何でも、もっともらしく頷き、「そうですね」「ほんとに、そのとおりですね」と相槌を打つためだけに存在しているとおぼしい隣のキャスター(……これでも??)小川彩佳、そして朝日新聞の「NY」支局長(なぜ「ニューヨーク」と書かない?)経験者の卑屈な「親米」精神むき出しの厚顔なコメントが加わる。

 3人が古舘の俗論を中心に、この世で最も浅薄な次元で同意し合い頷き合うだけのやりとりを平然と垂れ流し続けるこの「報道」番組の衰弱と頽廃は、東京電力・福島第1原発事故以後、いよいよひどくなっているようだ。
 (画面がスタジオに戻るたび、そこから展開される似而非「談義」の貧しさに、心底、やりきれないものを覚える)

 せっかくなので、ついでに言っておくと——テレビが生んだ稀有の知性・久米宏がその力を遺憾なく発揮した前身の『ニュースステーション』とは、もとより較ぶべくもないにせよ、最近の『報道ステーション』のひどさは、日本テレビ『ZERO』・TBS『NEWS23X』のはるか後塵を拝し、時としてフジ『ニュースJAPAN』をも下回って、文字通りの御用放送NHK『ニュースウオッチ9』と“批判精神の墓場”を争っている。

 ——それでは訊(き)くが、菅直人政権で東京電力・福島第1原発事故が収拾ができると、古舘は本気で思っているのか? 
 (おまえの繰り返し、口にしているのは、まさしくそうしたことなのだが)

 それどころか——このかん菅直人・枝野幸男の両名が為してきた悪行だけでも、本来緊急の民衆法廷——ないし国民法廷で、その犯罪性を糾明すべき性質のものであろう。
 (むろん株式会社東京電力幹部や、経済産業省原子力安全・保安院も同様である)

 石が浮かんで木の葉が沈み、枯れ木に花が咲き、蒲鉾が元の魚に戻って泳ぎ出すような超現実的異変の結果、万が一、菅直人・枝野幸男政権が東京電力・福島第1原発事故の処理に、突然、天地がひっくり返るがごとき能力を見せ始めたとしてすら——彼らには道義的に、その行為を行なう資格など、すでにないのだ。

 むろん、東北地方太平洋岸を中心に、大地震・大津波・福島第1原発事故による高濃度の放射線の影響を直接、甚大に受けた人びとの惨禍・苦境は哀悼と同情に堪えない。
 私も、すべての惨禍が計量的な次元で同じだなどとはまったく考えていない。
 
 だが、たとえば古舘伊知郎的な「被災者の気持ち」「避難所の視点」を持ち出したがる心底には、2つの問題がある。
 その第1は、いくら贅言を積み重ねようと、結局(たとえば東京のスタジオという)とりあえず相対的には保護された、安逸な場所から、他者の絶対的な不幸や苦難を見下ろし、猫撫で声の演技でそれらに見せかけの同情を示しつつ、結局は自らのために「利用」しているだけ、という欺瞞であり——第2は、こうして「被災者」「被災地」を徹底的に局限して定義し、「報道」することによって、東京電力・福島第1原発事故という全国的どころか国際的な核犯罪の規模をスケールダウンして印象づけようという意図である。
 (このかん、株式会社東京電力がマス・メディアに及ぼし、揮ってきた権勢が、どこまで圧倒的なものだったのか——。想像するだにおぞましい)

 「被災者」「被災地」という概念を矮小化するな。
 東京電力・福島第1原発事故にとっての「被災者」「被災地」は、本来、最大限、拡張して考えられねばならない。

 それが、核災害・核公害・核暴力というものの本質ではないか? 

 そうではないのか? 




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by uzumi-chan | 2011-06-05 09:30 | 東京電力・福島第1原発事故

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