「正義」という概念の、欠如した国 東京電力・福島第1原発事故(第62信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


「正義」という概念の、欠如した国



 
 ほんとうに脇谷某は、あのセカンド・フライを「捕球」していたのか? 
 (これは、とても大切なことなのだが)

 ——そしてなぜ、輿論(よろん)は、脇谷を徹底的に問い糺(ただ)さない? 

 また「讀賣ジャイアンツ」ファンは、この脇谷のような選手がいるチームについても、依然として、そのファンでいつづけることができるのか? 
 何より「讀賣ジャイアンツ」監督の原辰徳は、どうなのだ——? 

 私は実は原辰徳を、川上哲治・藤田元司および王貞治と並んで、この球団の中心選手および監督経験者のなかでは、人間として相対的に「まし」な人物であると考えていたが(厳密にいえば、川上・藤田・王の方がむろん、原よりはるかに「まし」なのだが)……原は、このような不正を等閑に付して良かったのか? 
 (万一、原が、あの夜、この「落球」を進んで認めていたら、このかん渡邊恒雄のせいで地に堕ちていたこの“球界の盟主”?? のイメージも、ある程度まで、挽回されたろうものを……)

 そして当夜、阪神タイガース監督・真弓明信は、ただちにベンチから球団上層部と連絡を取り、協議の上、「没収試合」を覚悟で選手全員をグラウンドから引き上げるべきだった(公認野球規則4・15)
 1971年7月13日の「阪急ブレーブス」対「ロッテオリオンズ」戦(阪急西宮球場)以来——阪神タイガースとしては67年9月23日の対「大洋ホエールズ」戦(甲子園球場)以来となる、日本プロ野球史上11試合目の試合抛棄の決断を敢行すべきだった。

 いまなら……この、いま——日本社会全体が、政府と東京電力の不正義に喘ぎ、どんな形であれ、真の「正義」を渇仰しているいまなら、間違いなく輿論の理解は得られた。東日本大震災の追悼と称して、ユニフォームに喪章を付けて試合に臨んだはずの選手のなかに、死者をも冒瀆する、このような人間の屑がいることを、苟(いやしく)も「プロ野球ファン」が——そして多くの大衆が、許しはしなかったろう。
 問題は否応なく「コミッショナー裁定」に持ち込まれ、輿論の後押しを受けて、判定は覆る可能性があり、少なくとも脇谷某の言動は、より多くの人びとの知るところとなっただろう。

 何より自軍には、ついこのあいだまで、元選手会長・古田敦也(元ヤクルト・スワローズ)、前選手会長・宮本慎也(現ヤクルト・スワローズ)の衣鉢を継ぎ、讀賣・渡邊恒雄らの暴挙と闘ってきた現選手会長・新井貴浩がいるではないか(そして宮本は——この、現役日本人野球選手中、稀有のカリスマを持った天才遊撃手は、今回も有形無形に、篤実な新井を支え続けていたではないか)。

 「讀賣ジャイアンツ」渡邊恒雄らの低劣な専横に抵抗し、「セ・パ同時開幕」を実現した闘いの、その次のステージとして、今回の脇谷某の虚偽と、審判団の“ミス・ジャッジ”の理由とを追及することは、日本プロ野球の倫理的再生のために、巨きな意味を持ったことだろう。

 真に闘わなければならなかったとき——しかも、闘っていたら「勝てる」可能性の極めて高かったとき、闘いを躊躇する者は、指揮官としての資質に決定的に欠けている。
 確実に「勝てた」——そうは言えないまでも、確実に、広く「社会問題とまでは、し得た」。そしていまの「讀賣ジャイアンツ」にとっては、それだけで重大な打撃となっていたはずである。
 (それをそうしなかったのは、できなかったのは、阪神タイガース監督・真弓明信の指導者としての力量の乏しさの結果にほかならない)

 真弓は、一世一代の晴れ舞台を逸した。

 それにしても脇谷は、いまもなお、あのフライを捕球していたと強弁しつづけるのか? 
 マス・メディアは、脇谷に証拠映像を突きつけ、いま一度、その回答を要求すべきではないのか? 

 これは大相撲の野球賭博・八百長問題など以上に、正義と不正義、真実と虚偽の問題なのだが。
 事と次第によっては、それこそ球界を「永久追放」されるに値する問題なのではないか? 

 私は、脇谷某に問いたい。
 ほんとうに、きみは、あのセカンド・フライを「捕球」していたのか? 

 そして何より、まず阪神タイガースファンは——そして全プロ野球ファンは、この事件を持続的に問題にすべきではないのか? 
 「気持ちを切り替えて、翌日の試合を頑張る」といったこととは、これは根本的に別問題ではないのか? 

 それをすら、する気力がないのなら……もう、プロ野球など、やめてしまえ。
 そんな欺瞞を続けても、日本の人心をさらにいっそう荒廃させ、権利意識を低めるだけである。

 ——すると早速、“過ぎたことをねちねち言わないのが、スポーツマンシップ”といった、愚にもつかない俗論が、「言葉のファシズム」(当ブログ〔東京電力・福島第1原発事故〕第46信《なんという、「言葉のファシズム」の国!》、参照)の尻馬に乗ってあたりに漂いはじめる。ヨウ素131か、セシウム137のように。
 あるいはまた、“「正義」という言葉を大上段にふりかざすことの方が、かえって怖い”と、利いた風な——。

 違う。
 貶(おとし)められた「事実」のため、たった一人になっても真に闘ったことのない者たちに、何が分かるつもりでいるのか。
 小賢しい、と言うも空しい。

 不正義を糾弾しつづけること、正義を希求することに、かくも持続的な心情の乏しい、この国の精神風土に、前身の血液が逆流する思いがする。
 ともすれば、不正義により直接の被害を被った、その被害者自身すら——あまりに。

 あまりにも、「正義」という概念のない国である。

 そう。
 だから——こんなことだから、従来もさんざん危険性を指摘されてきながら、東京電力が「想定外」を言い訳に、もはや取り返しのつかない福島第1原発事故の責任を逃れ、菅直人・枝野幸男らが国民を誑(たぶら)かし、生命の危険に曝しつづけ、細野豪志の「どん底まで行った。(原発は)ほとんど制御不能のところまで行った」発言の真相が究明されることもなく、東京電力は舌を出し、会長・社長から末端正社員までが愚にもつかない低劣な特権意識の塊で、揚げ句の果て、それら人間の屑の集合体の核暴走加害企業を存続させ、彼らの高額の給与・ボーナスを保護してやるために“消費税”を15%にも増税していよいよ民生を圧迫する……という、およそ近代国家としてあり得ない悪夢の茶番が、平然と罷り通ることになるのだろう。

 それにしても、脇谷某は、ほんとうに、あのフライを「捕球」していたのか? 
 もしもそうでなかったとしたら、にもかかわらずそれを、

 「捕りましたよ。自分の中ではスレスレのところでやってますから。VTR? テレビの映りが悪いんじゃないですか」

 と偽ることは、野球人として——そして人間として、恥ずべきことではないのか? 

 つくづく、「正義」という概念の欠如した国である。





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by uzumi-chan | 2011-04-22 23:36 | 東京電力・福島第1原発事故

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