読谷村長の〝米軍倉庫群受け入れ〟表明に、村民大会の開催を


『生き抜くための省察録』から

読谷村長の〝米軍倉庫群受け入れ〟表明に、村民大会の開催を

  ——2015年12月25日、読谷村役場にて



夜の言葉〔第018葉〕



 2015年12月25日。
 前夜、友人からの情報で知った〝読谷(よみたん)村長による、読谷村・米軍トリイ通信施設への米軍牧港補給地区の倉庫群受け入れ表明〟に関する、読谷村側との「説明会」に、本日、急遽、参加した。場所は、読谷村役場・3階会議室。
 なお、この「説明会」は、村民側からの要請によって実現したものである。

 参加者は最終的に32~33名ほど。旧知の方も多い。
 また、私以外に、少なくとももう一人、読谷在住以外の方がおられた模様である。
 読谷村側からの出席者は、石嶺傳實(いしみね・でんじつ)・読谷村長、建設部長ら。

 私は、15時30分の開始時刻に、都合で10分ほど遅れて到着。
 当初17時30分までだった予定は大幅に延長され、最終的には19時30分近くまで、参加者による質疑応答が続いた。

 今回、12月半ばを過ぎて突如、村民の知るところとなった、この——総額4200万円の「再編交付金」と引き換えに、読谷村内の米軍トリイ通信施設に、同・牧港補給地区の倉庫群を「引き受ける」という、事実上の基地の拡大・強化にほかならない村長の決定に関しては、すでに新聞報道もなされていた。

 (ただし、昨夕の「説明会」は、役場までは取材に来ていたという『琉球新報』『沖縄タイムス』の記者を〝入れない〟方針で行なわれていたことを、後になって私は知る)。

 本日の「説明会」における参加村民の発言には多く学ぶところがあり、私は少なからず感銘を受けた。
 だが、その内容の詳細を公表することについては、今後の村民と村側との交渉をめぐる問題もあるところから、私としては立場上、現時点ではいったん保留する。
  代わりに「説明会」の後半(たぶん18時15分ごろから)、村側の対応および論議の全体的な流れに若干の危惧を感じ、1回だけ、私がさせていただいた発言を、手許のメモをもとに採録することで、私からの「報告」としたい。

 これをお読みいただければ、読谷村民でない私が「説明会」に参加した理由、そして自ら発言することのスタンスについても御理解いただけるだろう。

   ……………………………………………………

 皆さん、今晩は。沖縄市から参りました山口泉と申します。読谷村民ではありませんが、読谷村を外から見てきた者の言葉として、少し、お聴きいただければ幸いです。

 このたび、こうした重大な問題に関し、このように緊急の「説明会」が持たれた。そのことは、さすがに読谷村の村民の皆さんの自治意識の高さを示すものとして感銘を受けています。

 かねて私は、「命(ぬち)どぅ宝」(命こそ宝)という沖縄の深く偉大な思想を前面に標榜する自治体として、 読谷村に深い敬意を持ってきました。チビチリガマがあり、金城実さんの彫刻があり、山内徳信・元村長の「基地と文化の闘い」に象徴される反戦・平和の村政がある。

 そして今回もここで、いままで、皆さんの痛切な意見を聴き、多くを学ばせていただいてきました。
 さきほど、私の隣で、これだけは大切な人びとの命を守るため、勇気をもって言わなければならない……と、感動的な意見表明をした彼女も、私の大切な友人です。

 皆さんの話を伺い、改めて思うのは、基地は原発と基本的に同じということです。それを誘致する、招致することに関しては、〝地域住民〟の同意が得られさえすれば良いということになっています。
 しかし、ひとたび重大事態が起これば、それはその〝地域〟だけで済む問題であるはずはありません。それは市町村も都道府県も越えて、広範囲に取り返しのつかない結果をもたらします。そしてそれはお金で贖(あがな)うことができません。

 私は一昨年、東京から沖縄市に移住しました。2011年に起こった東京電力・福島第1原発事故の影響で、東京に住んでいた私自身にも、明らかな健康被害の自覚が出てきたため、かねて大好きで、また友人もたくさんいる沖縄の地に移住したのです。

 そして原発被害の問題がそうであるように、基地被害もまた、その立地する〝地域〟だけの問題ではありません。宮森小学校のジェット機墜落事故はじめ、基地のような大規模な暴力施設が、緊急時にもたらす被害の甚大さ・広汎さは計り知れません。
 それが私が読谷村民ではないにもかかわらず、今回の事態が沖縄全体の問題として、本日、ここに参加させていただいている理由の一つでもあります。

 ここまで、村長の回答を聴いていて、私が何より問題だと感ずるのは、今回の経緯において読谷村議会がまったく軽視されていることです。本来、民主主義の原則においては主権者の代表である議員、その議員からなる議会が無視されたまま、こんな重大なことが村長とその周辺によって決められ、マスコミにリークされている。

 さきほど村長は、このたびの倉庫受け入れは庁議で決定し、村議会へは説明・報告をしたと言われました。しかし村議会での「議決」はあったのでしょうか? 議決が為されていない限り、私はこれはあくまで読谷村としての正式な意思決定としては、とうてい認められ難いのではないかと思います。問題の重要性に照らしても。

 私は読谷村の事情には詳しくありませんし、村長についてもよく存じ上げません。従って、このような申し上げようは甚だ失礼かもしれないのですが、客観的に経緯を伺う限り、今回の村議会無視、庁議での〝決定〟を報告する……という方法は、さながら安倍政権が「集団的自衛権」を「閣議決定」し、国会も憲法も踏み躙ってゆくやり方にそっくりです。
 だって、「反戦」「平和」「基地撤去」という理念は、そもそも読谷村にとっての「憲法」のようなものではないですか? その憲法に等しい、いちばん大切な原則を、村議会にもかけず、村長がただ庁議で、村民の知らないうちに取り決め、それがマスコミを通じて知らされる。長年、読谷村に経緯を抱いてきた者として、ほんとうに残念です。

 村長は「米軍基地のなかのことなのでどうしようもない」「すでに作業が始まっている以上、現実的に対応するしかない」と繰り返される。しかし、すべて、現にあること、起こされてしまっていることを、それが現実だから受け容れるしかないという受動的な市政だけで良いのか、疑問を感じます。

 現に辺野古では、86歳の島袋文子さんが雨の中も座り込みを続け、癌を患った山城博治さんが病を押して抵抗の先頭に立っている。一方で翁長雄志知事は、知事選のときからずっと「命を懸けて」沖縄の思いを日本政府に伝えると表明してきた。

 このように沖縄が懸命の闘いを続けているさなかに、ほかならぬ読谷村が、もう現実に始まっていることだからしかたない、受け容れるしかないという対応なのは、あまりに受動的で信じられません。さきほどから村長は皆さんの質問に対し、その政治理念を問われて「平和」ということを言われる。しかしそれはどこまでも観念的で空疎な抽象論です。

 また、さきほどからこの「説明会」の流れが大きく二つに分かれてきている気がします。もちろん基地反対という思いは共に同じなのでしょうが、あくまで移設倉庫受け入れ反対という考えと、移設に伴う「環境汚染」への「立入調査権」が担保されるなら、それは認めても良い、むしろ基地問題全体にとっては前進だ、というような認識に。

 しかし私は、今回の経緯があくまで村議会を無視して村長により進められてきているという経過に照らしても、まず村民・読谷村は、とりあえずいったん原則的・全面的に「倉庫移設・受け入れ反対」を表明すべきだと思うのです。

 もしもそれが村議会でも通らず、最終的に「倉庫移設・受け入れ反対」というような事態が避け難くなったとき、初めて「環境汚染立入調査権」のような選択肢は現実の意味を持ってくるのであって、少なくとも現段階で村民の側は、なんとしてもこの移設そのものと、それから村長の対応に対する反対を徹底して表明すべきではないでしょうか? 

 そのためには、やはり村民大会の開催が必要だと思います。
 これは、それだけ重大な問題だと考えるからです。

 お聴きいただき、ありがとうございました。いっぺーにふぇーでーびたん(どうもありがとうございました)


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 以上、メモと記憶を元に、私の発言を復元した。遺漏があるかもしれないが、90%以上は精確な内容であると思う。

 幸い、少なからぬ方がたからの賛同もいただけ、また全体としてその後、1時間ほどの流れは、来年早早の「村民集会」の展望も含め、より具体的なものとなっていったと思う。

 なかで複数の方が、村内それぞれの地域で、おのおのが支持し当選した村議への働きかけを強めることを提案されたのは、大変、重要だ。事実上、村議会での審議は今後の問題となる以上、まさに読谷村議会にあっても村民の「民意」を、その代表者に明確に示し、彼らがそれに則って力を尽くすよう、促すこと——。
 「民主主義」の基本である。

 私の住む沖縄市の現況も含め、目下、基本的に「議会」がきちんと機能していない印象を受ける。
 私はこのかんの桑江朝千夫市政の(危惧されたとおりの)惨状に関しても、沖縄市議会の動きがあまりに鈍いのではないかとの不満を持っているが、確認したところ、今夕の「説明会」にも、読谷村議はただの一人も姿を見せていなかった。一体、どうなっているのか。

 こうしたところから、根本的な意識変革の必要があると思う。議員はむろん、村民一人一人も、自らの「権利」の行使の問題として。

 最後に印象的だったのは、今回の村長の対応に関し、何人かの読谷村民の方が「これでは、辺野古へ行くのが恥ずかしい」「今のままでは、恥ずかしくて辺野古へ行けない」という思いを吐露されていたこと。
 現在の沖縄と世界における、「辺野古」と場所の意味を端的に示す、この言葉には、私は強い感銘を受けた。

読谷村は1945年4月1日、米軍の、沖縄本島への上陸地点となった地である。以後の悲惨極まりない展開については、すでに多くの証言がなされている。また、上掲の発言でも触れているとおり、厖大な米軍基地に対し、山内徳信・元村長をはじめ、人びとが『日本国憲法』の理念を前面に「基地と文化の闘い」を続けてきた自治体として、内外に広く知られている。

 私が住むのは沖縄市だが、読谷村は前世紀、私が沖縄と出会ったときから極めて強い思いを寄せる地である。畏敬してやまない先達、愛する友人たちも、多くいる。私自身、いつかその地に住むか、期間限定的にでも仕事場を探したいとも思ってきた。

 その読谷村に、いま、この困難を極める状況下、思いがけず出来(しゅったい)した事態についても、当面、継続的に関与したい。
 そう、考えている。






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by uzumi-chan | 2015-12-26 21:39 | 【C】夜の言葉

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