日本の、実はまだ完全に生まれてはいなかった「民主主義」が虐殺されたとも受け止められる日に、その……


『生き抜くための省察録』から

日本の、実はまだ
完全に生まれてはいなかった
「民主主義」が虐殺されたとも受け止められる日に、
そのほんとうの「新生」を切望する
簡略な走り書き風メモ

  ——2015年9月18日~21日


夜の言葉〔第017葉〕



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 2015年9月19日未明、卓上にiPad 2台を並べ、参議院本会議の「戦争法制」〝採決〟の進行と、それに対し、国会の外で懸命に反対・抗議の声を上げつづける人びとの姿とを、左右の画面で確認していた。
 時折り、手許の iPad mini で気の重いメモを取りながら。
 ——当然、胸を塞(ふさ)がれる思いである。


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 いかにも、制度としての「政治」の内部において、政府与党によって推し進められたのは、あまりにも常軌を逸した目を疑う暴挙であり、驚愕すべき茶番であり、醜悪な惨劇だった。いまさら繰り返すまでもないが、これは「法」の概念を根底から否定する独裁以外の何物でもない。
 「国会」という制度の場においてだけ成立する、一握りの低劣な者らによっての、国家と社会、そしてそこに好むと好まざるとに関わらず生きざるを得ない人びとの生命と生活の私物化——。
 これ以上に理不尽な暴挙があるだろうか。

 なるほど、野党の反対討論の中には、一定程度、真剣味の籠もったものも散見されないではなかった。しかし、いまだ十分ではない。
 結果として、何が何でも違憲立法を阻むことができなかった。その気概の片鱗すら、きちんと示されることはなかった。
 この一点において、彼らは敗れているし、それ以上に誠実ではなかったのだ。むろん、それらの存在を一定程度、評価することはされねばならぬとしても。なお。

 彼ら野党に言う。とりわけ、民主党に言う。2009年、いったんは積年の自民党の呪縛からこの国を部分的にせよ、解放し得たはずの前・政権党に。
 いま、寄せられる市民の支持に、あなたがたが慢心していてはならない。
 少なからぬ人びとが、いかなる思いをもって——あえて言うなら、悔しさと憤りに地団駄を踏み、歯噛みしながら——それでもなお、民主党議員の反対討論を聴き、そして絞り出すような「支援」の声、呻きを上げていたか。

 いかにも、東京電力・福島第1原発事故をもたらした「主犯」は紛れもない自民党である。また2006年の国会答弁で、同原発の予備電源の必要性を公然と否定した安倍晋三であった。
 そうではあったにしても、しかしあの2011年3月11日からの数十時間、ないしは数百日間、SPEEDIのデータを米国にのみ提供し、この国に生きざるを得ない人びとを偽り、あたら被曝させつづけた当時の「政府」を構成していた、その責任は、永遠に消えることはない

 にもかかわらず、この国に生きざるを得ない民、私たちは、安倍晋三の絶望的な軍国主義ファシズムの完成を前に、彼らにも一縷(いちる)の希望を託したのだ。その思いに対して、当時の政権与党であった民主党はじめ、現・野党はどこまで「必死」であったか。
 それについては、今後の戒めとするためにも一言、確認しておく。これは糾弾として以上に、未来を、真に可能性あるものとするためだ。

 この耐え難い時間のすべてを通じ、「国会」という制度内部において、唯一、完璧に真実だったのは、山本太郎議員の言動だけだった。
 その事実は、現在の「国会」と市民社会との懸隔そのものを示している。

 とりわけ最後、「一人牛歩」を重ねた末、青票(反対票)を手にしての壇上での、安倍政権と与党議員、経団連とアメリカを指弾しての山本太郎氏の呼びかけには、胸を打たれる。

 これこそが、名前と顔と人格を持った、血の通う言葉であり、「人間」の魂の底からの叫びである。国会議員の演説で、これほど痛切、かつ人間的真実に満ちたものを初めて聞いた。



 ——なるほど、その後の日本共産党・志位和夫委員長による、安倍政権打倒のための「国民政府」の提言には、私も少なからぬ注目をしてはいる。そして、それはたしかに新たな「人民戦線」の萌芽の予兆でもあるかもしれない。
 しかし、その一方、いわゆる「人民戦線」Front Populaire という概念が、その成立した諸国で歴史的に示してきた脆弱さ、〝詰めの甘さ〟も、私は同時に危惧する。
 (そしてすでにこれに対し、早くも他の野党内部から「異論」が……攪乱(かくらん)工作が始まりかねない予兆もある)

 何より、2015年9月18日から19日未明にかけ、参議院本会議において十分に闘い得なかった人びとの今後の抵抗、その「覚悟」に、少なくとも現時点では、私は安易な「期待」を委任してしまうべきではないと考える。
 山本太郎氏ひとりに「牛歩」を強い、彼に与党議員たちから浴びせられる、おぞましい罵詈雑言を(おそらくは自らも、その胸中に、あくまで真実で自由な一個の人間でありうる山本太郎氏に対する、何重にも鬱屈した思いの襞を畳み込みながらに、違いあるまい)傍観していた他の野党議員たちを——。

 「いざとなったら野党議員全員が辞職する」云云と、例によって口先だけの言辞を弄んでいた一部の人びとは、どうしたのか? 政治家の「言葉」は、どこまで空虚に腐蝕してゆくのか。

 また、このかん再三、提言してきたにもかかわらず、たとえばかつて羽仁五郎が「護憲」の最後の抵抗手段と規定し、望みを託しつづけた「ゼネスト」はおろか、一定程度、組織された部分的ストライキすら、見られないほど労働運動が衰退していることも深刻な要素である。
 実際、この「戦争法制」強行可決という事態は、「院内」のみならず、社会のあらゆる場で、より広汎な抵抗が行なわれて当然のものではなかったか。にもかかわらず、私たちの紛れもない「不安」や「怒り」は、それを組織し、抵抗の手段とする回路を、いまだ十分には獲得し得ないでいる。

 だからこそ、野党の責任は重大なのだ
 あなた方はいまこそ、政党としての本来の責任を、真に果たすべきなのだ。 

 事態は、限りなく危機的である。
 むろん「諦め」られるはずもない。なぜなら、それは死を意味するから。
 私は絶対に諦めない。断念しない。
 だがその一方、いかなる安易な「希望」も、状況を打開しはしない。
 ぎりぎりの段階である。

 人の命を、国家があたかも自らの「資源」のごとく、意のままに取り扱うことなど、本来いかなる形でも認めがたい。私たち市民の1人1人は、たとえどの国に帰属していようと、本来——真っ当な道理を持って思慮するなら——戦争など望んでいない。望む立場にない。なぜなら、それによって殺されるのは、ほかならぬ私たち自身だから。

 だが、それでは困る国家と資本とが、戦争を準備する。
 そして、戦争で殺されるはずの人びとをも、その現実への憤懣や疎外感から、むしろすすんで戦争に加担するよう使嗾(しそう)する。そそのかす。
 不条理の極みであり、歴史にも道義にも悖(もと)る策謀だ。

 戦争準備を強行しようとする者は、嘘に嘘を塗り重ね、私たちを欺こうとする。このたびの安倍・自公政権に見るが如く、もともと論理において完全に破綻し、倫理において人間性の底を踏み抜いた低劣を極めている者たちなのだ。これからもいよいよ、いかなる卑怯な手段も躊躇なく用いることだろう。
 遠からず、重大な事態が「起こされる」可能性を、一瞬の油断もなく警戒しなければならない。
 もし、何かしらが「起こっ」たら、その根底の真相を見抜かなければいけない。

 その彼らに、私たちが敗れることがあるとすれば、たぶんそれは連帯の規模や強度の問題以上に、1人1人の内部の「拒絶」の意思が腐蝕する時だ。

 「絶望しているわけにはいかない」ことと「現実の絶望性」とは別の問題だ。
 ひと握りの悪しき者たちが「国会」の内部で為した、条理を踏み躙る悪事が、この国に生きざるを得ない者から、近隣諸地域、そして遠く数千kmを隔てた地の民までの生命や生活を脅かす。多年にわたる日本大衆社会の無自覚な意識の低さが、安倍晋三・麻生太郎をはじめ、血縁・閨閥をのみ自らの下卑た「特権性」の根拠としてきた者らに、私たちの〝生殺与奪の権〟を与えるところまで押し切られてしまった事実は、ゆめゆめ軽視されてはならない。

 まだ『日本国憲法』改悪までは間がある、などと楽観していてもならない。
 彼らはすでにすべてを完了する「終局」のプログラムを用意していよう。それも、おそらく私たちが、なお人間としての基本的な節度と雅量を持って想定している、そのなかでの最低の「底」をもさらに下回る〝最低に最低〟な形で。

 ——というのは、今回のおぞましい事態の経過すべてを通じ、結局かくも「法」の基本の論理と道義を踏み躙った暴挙が、結局すべて彼らの思うがままに成就してきてしまった事実は、決して軽視されて済むことではないからだ。
 いまや、この国は人・社会・国家としての箍(たが)が根底から外れた、末期的な無法状態にある。一体、何世紀前の話だ? 

 だが、もはや現状では『日本国憲法』改悪が、正しく条文の規定に沿って行なわれ得るかの保証すらないのだ。かくも、「法」も「言葉」も空洞化した国で。

 いかにも、私たちは偽りの「戦後」の〝つけ〟を支払わされている。そしてそれは実は「70年間、平和だった」「戦争はなかった」と、沖縄を含め、アジアの人びと、朝鮮半島やインドシナ半島、中東の民を前に、臆面もなく言い放ち得てきたこれまでの全過程を通じ、堆積してきたものだ。
 そして沖縄がいま、どれほど懸命の闘いを展開しようと、その上に日本国家が圧制を布(し)いている以上、事態は容易ではない。この構造的な日米二重植民地支配が、日本国家に帰属する1「県」に向けている暴圧と侮辱とは、基本的人権という概念、人道の道理を蹂躙する。

 「70年間、平和だった」のでは、ない。「戦争はなかった」のでも、ない。
 日本国は、米国の帝国主義戦争に、その陋劣な共犯者として加担しつづけていたのだから。

 確認すべきことは簡単だ。
 いま、安倍晋三によって決定的に奪われつつある「戦後」70年の意味を問うとき、私たちは同時にその虚構性と欺瞞とを見据えながら、しかも眼前のファシズムへの緊急の抵抗を躊躇なく続けるという義務を果たすことを余儀なくされているのだ。

 だが、その負債返済を担おうとする人びとの表情が、いま、必ずしも暗鬱でも卑屈でもない。
 これは数少ない、しかし確かな「希望」である。

 ……ここまでを綴って、私は以前、『新しい中世の始まりにあたって』(月刊「世界」1992年4月号~12月号連載/のち1994年、『「新しい中世」がやってきた!』として岩波書店刊。ただし私は現在でも、雑誌連載時の題名の方に愛着がある)の冒頭にも引用した、ミカエル・レヴィ『「現存社会主義」の危機に関する12のテーゼ』Twelve Theses on the Crisis of “Really Existing Socialism”の顰(ひそ)みに倣(なら)って、日本の〝「戦後」民主主義〟に関し、私自身が書いたテーゼがどこかにあったはずだと検索してみたところ、すぐに見つかった。

 当ブログ『精神の戒厳令下に』の先行する論攷(ろんこう)

 『〝日本の民主主義は死んだ〟のか? ——2013年12月7日に記す、走り書き風草稿メモ』
 http://auroro.exblog.jp/m2013-12-01/


 に、前掲・パリ科学研究センター社会学主任(当時)M・レヴィの『Monthly Review』1991年5月号掲載論文の書き出し——《人は、生まれるまえに死ぬことはできない。共産主義は死んでいない。なぜなら、それはまだ生まれていないのだから。このことは、社会主義についても同様である。》を引きつつ、私が次のように記したのは、まさしくその2013年12月7日のことだった。
 安倍政権が『特定秘密保護法』なる、これもおぞましい悪法——このたびの「戦争法制」と併せて、どれほど恐怖しても、し過ぎることはない悪法を、可決成立させた直後である。

 《人は、生まれるまえに死ぬことはできない。
 〝日本の民主主義〟は死んでいない。
 なぜなら、それはまだ生まれていなかったのだから。》


 してみると実は——というより、当然のことながら——この2013年12月から現在に至るまで、私たちは安倍晋三・軍国主義ファシズムによる日本の「転落」の〝堕ちるところまで堕ちる〟プロセスの渦中に置かれつづけてきたということもできるだろう。願わくは、いまこの現在がその最低点であり、ここから先、新たな「上昇」の気運が生成されてくることを。

 いかにも、〝日本の民主主義〟はまだ真に(完全には)生まれてすらいなかったのだ。
 そして、偽りの「戦後」70年を閲(けみ)して、もしかしたらいま(少なくとも、一部の覚醒した先駆者においてではなく、大衆・市民社会的規模においては)初めて——それは生まれつつあるかもしれないのだ。

 当面、たとえば日本共産党はじめ幾つかの立場から主張されている「解散・総選挙」が、どのようなプログラムを通じ、実現可能なのかどうか、ただちに詳(つまび)らかにはしない。現・安倍政権がこの状況下、容易にそれに応ずるはずはない。
 さらに来夏の参議院選挙に関しても、事態は予断を許さないだろう。危惧すべき要素は枚挙にいとまがない。状況は極めて緊迫している。

 だが、いかに展望が乏しくとも、とりあえず今回、安倍政権の横暴に最後まで抵抗しつづけた広汎な市民を機軸に、多くの心ある人びとが——参政権を与えられていると、いないとにかかわらず——連帯し、危機感を共有するところからしか、乏しい、僅かな可能性も、始まりはしないのだ。
 さまざまな不安・懸念・危惧・恐怖を抱えながらも、遅くとも参院選、そして可能なら「解散・総選挙」から、決定的な倒閣—政権交代に到る抵抗を組織するよりほかに、私たちが生き延びる道はないのだ。

 かつて、「戦争を知らない子供たち」(北山修)と誇らかに名乗り、また「戦(いくさ)知らずに二十歳になっ」た(寺山修司)と瑞みずしい「叙情」を迸(ほとばし)らせもした——私たち「戦後」日本人が、いま、その厖大な負債を、(果たして返済可能なものなのかどうか、そして受け取られるものなのかどうかも別にして)沖縄を含む東アジア、さらにはこの搾取と抑圧、差別と収奪とに充ち満ちた、不平等で悲惨な全世界に向けて、誠意をもって返すべき時だ。
 自らの存在と、人としての尊厳を賭して、隣人と——そして遠くの他者と、いまこれから初めて生まれる「抵抗」の歴史を生成する時である。






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by uzumi-chan | 2015-09-21 17:47 | 【C】夜の言葉

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