それは恐ろしいことではないのか? ――被曝から5度目の陽春の日日の底で


『生き抜くための省察録』から

それは恐ろしいことではないのか?

  ――被曝から5度目の陽春の日日の底で


夜の言葉〔第015葉〕




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 まだ、旅の途上にある。

 よんどころない所用で、「連休」中の西日本を、中部地方から四国にまでかけ、ジグザグに往き来する2週間弱の行程――。 
 京都・長野・名古屋・京都・徳島(現在地)……と、根源とはまさに一つなのだが、その土地土地で、現われとしてはまったく異なった目的・主題のもと、さまざまな方がたと出会いを重ねるという、一種〝百科全書的〟な旅である。
 そのもたらすものは厖大で、本来リアルタイムでの「報告」が望ましいのだろうが……。

 迅速な返信を必要とする電子メイルへの対応を除き、昔から、ホテル一般の奥行きに乏しい机にコンピュータを据えるのが、あまり好きではない。だから接続ケーブルはごっそり携行してきたものの、結局カメラ2台とディバイス2台とに分散して撮影・保存されている写真の整理にも、手は着いておらず。
 このテキストも、狭いベッドに仰臥し、iPad mini 3で綴っているありさま。すべては、帰沖してからのこととなりそうだ。

 (余談だが、何十度と旅行を重ねていた間、沖縄戦についても米軍基地についても――少なくとも、ヤマトンチュとしては――ある程度「知っていた」つもりの沖縄が、いざ移住してみると、いままでとはまったく次元を異にした姿を示すようになったという、それとは、むろん違った意味で……しかしながら、このたびは「沖縄県民」として歴訪している上掲の諸都市もまた、従来よりはるかに、相互の個別の差異を超え、日本国の一部としての類似性が明白になってくる。
 ——これは私自身、驚愕する感覚だった。

 そして、被曝から5度目の陽春の日日のなか、笑止にも、おぞましい米上下院の〝演説〟をはじめ、安倍晋三売国・亡国政権の独裁はとめどなく、これに追従する者たちの浅ましい転向が、ぼろぼろと続く。

  もとより糸井重里や太田光についてなら、私は彼らが世に出てきた当初から、その本質は承知している。だが今般、元・相撲取りのNHK大相撲中継解説者・舞の海秀平が「日本人力士が弱いのは『憲法前文』のせいだ」と牽強付会の半可通ぶりを示したのには茫然とした。
 仮に「相撲の精神」「相撲道」(?)とやらいうものがあるとして、それをも真っ向から踏み躙るこの戯画的暴言は、今後に起こる「総転向」の悪夢の予兆と見做されるべきかもしれない。



 それにしても、いま真に〝メディア〟が為すべきは、少なくとも「時代遅れか、平和主義の象徴か…。憲法が今、かつてない風雨にさらされています」(朝日新聞デジタル・ヘッドライン/2015年5月4日)などとうそぶいて両論併記の擬似〝客観主義〟を装うことでは、絶対にない。
 政府の明白な横暴を糺(ただ)し、ファシズムに歯止めをかけることだ。

 各地で出会う人びとの多くが、一言二言、言葉を交わせば、この現状の危機に対する焦慮の思いを、私と共有していることが分かる。
 だがしかも、その焦慮を——不安を、他の場では容易に発し得ない圧力が、空気のすべてに充ち満ちているのだとも吐露する。

 かくも真っ当な教養と良識、批判精神が、この国の各地に確実に存在しながら——にも関わらず、権力とメディアの要路を詐欺的に占拠し続ける**ごく一部の低劣な支配層によって、世界に恥ずべき反動主義のプログラムが公然と加速している。
 一握りの愚者が捏造した無分別なシステムに、大多数の賢者・良心が生殺与奪の権を握られている。
 紛れもないファシズムの、もはや完成直前の段階である。

 それは疑いなく、私たちが全身全霊を挙げて恐怖すべき事柄ではないか。
 そうではないのか?

 ** 公約を破ること、公約の〝優先課題〟を選挙後に平然とすり替えることは、政治家として最大の詐欺にほかなるまい。


 私が何より絶望するのは、直接のファシストたちの強大さに対してではない。
 むしろ内実としては取るに足らぬ、無教養で没知性を極めるあれらの手合い***が、しかも自らの生命と生活とを理不尽にも簒奪(さんだつ)・横領しようとしている現状に、「このままでは殺されてしまう」という恐怖も「あのように低劣な者たちの専横を許さない」という怒りも、共に決定的に乏しい――日本国大衆の過半の陥って久しい、集団催眠状態の沈黙に対してだ。

 *** 安倍晋三、麻生太郎ら、本来その帰属する階級からすればいくらでも可能であったはずの、自らの内実の空疎さを扮飾する「言葉」をすら身につける努力を怠った、底抜けに愚劣な者たちのことを、私は指している。


 「生活」のいっさいを根源から脅かす暴圧が、いま確実に、臨界点に迫りつつある。

 私たちは日日の「生活」を手放すわけにはいかない。
 だが、それに追われながらも、それら「生活」の全表層の下から、それらいっさいを滅亡させる、その暴圧が迫っていることを忘れたら――そのとき私たちは、国家が蕩尽する「使い棄て」の資源とされるのだ。いまある日常のすべては、あっけなく消滅するのだ。

 それは、恐ろしいことではないのか?






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by uzumi-chan | 2015-05-05 00:15 | 【C】夜の言葉

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