「開戦」の不吉な予兆に満ちて——5度目の3月11日に
2015年 03月 21日
『生き抜くための省察録』から
「開戦」の不吉な予兆に満ちて
——5度目の3月11日に
夜の言葉〔第011葉〕
以下の論攷(ろんこう)は、〝「戦後」日本〟における象徴天皇制と、安倍晋三の独裁との関連をめぐっての考察である。(*)
* このかん先月下旬来の……ないし、見ようによっては昨年12月中旬以来、続いてきた体調不良とそれに伴う若干の事情に、日常生活のすべてがさまざまな制約を受けてきた。
症状は、いまだ本復しているとは言い難い。だが、当ブログに関し、すでに1週間以上、持ち越してしまっている草稿があり——むろんそれ以前から棚上げになっている未定稿にいたっては枚挙にいとまがないものの——これを発表しておかないことには、今週末以降(病み上がりの軀を押して……?!)那覇や辺野古、泡瀬で予定している活動に取り紛れ、さらに停滞が深まることが容易に予想されるところから、急ぎ、当該のテキストをまとめておく。
2015年3月11日。
「あの日」から4年を閲(けみ)した——私の用いる起算方式で言うなら「5度目」の「3・11」に、私が最も強く心を揺さぶられた〝ニュース〟は、〝公共放送〟NHKのそれを筆頭にいよいよ欺瞞に満ちた「復興」キャンペーン——もはや回復不可能な絶望的現実を隠蔽し、安倍晋三ファシスト軍国主義政権の走狗に徹しきったプロパガンダの類ではなく、以下の外信(AFP)だった。
《東日本大震災から4年、子どもたちがたこ揚げで追悼 ガザ地区》
http://www.afpbb.com/articles/-/3042002
《安倍晋三政権下のきょう、当然、さまざまな思いの去来するこのニュースについては、後ほど「ツイッター」ないし、ブログ『精神の戒厳令下に』に、思うところを記します。》と、私は3月11日付の「ツイート」に記した。
そこで本稿は、この話題から書き起こすこととする。
上記記事によれば、《このイベントは国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が主催したもので、日本の支援によりハンユニスで進められている住宅建設プロジェクト実施エリアのそばで行われた。》とのこと。
なるほど、それなら「私♥日本」の漢字のボードや鉢巻などが手回し良く用意され、使用されていることも説明がつく。
だとすれば、この風景そのものにも、ある微妙な「痛ましさ」が伴うことは否定できない。
だが、それはそれとして、いま——2015年3月10日という日に、ガザの難民キャンプで、日本との連帯を表明し「私♥日本」の文言を掲げ、さまざまな凧を揚げるパレスチナの子どもたちの、私たちの国に対する一定の好意と共感もまた、疑いない。
そして、それらすべての経緯を思うとき、前述の〝微妙な痛ましさ〟は、私たち日本人において、より直截の「自責」へとも、また向かわざるを得ない。
最悪のファシスト軍国主義者(……という意味のことを、自らが2013年9月、ニューヨークに於いて、国際社会へ向け平然と開きなおった)内閣総理大臣・安倍晋三が、本年1月18日、こともあろうにエルサレムで、ネタニエフと、無恥と無能と陋劣をさらけだした〝交歓〟をして見せ、「戦後」の国是の1つたる「武器輸出三原則」を愚かにも擲(なげう)って、イスラエルへの武器輸出を断行する、この国。
すなわち、自分たちに向けられる武器を「輸出」し、無限に拡大する「集団的自衛権」を根拠に派兵すらしてきかねない、この度し難い国・日本に——なお心を寄せてくれるパレスチナの子どもたち。
「合わせる顔がない」とは、こうしたことを謂(い)う。
そしていまや、真に恐るべきことには——かかるファシスト軍国主義政権に掣肘(せいちゅう)を加えるものが、この国からは事実上、なくなろうとしている。
「戦後が終わった」のでもなければ「新たな戦前」でもない、すでにこの国は明白な「戦中」——戦時状態へと突入しているのだ。
その初期段階としては、当初から繰り返し述べてきているとおり、2011年3月11日、東京電力・福島第1原発事故が発生したにもかかわらず〝公共放送〟NHKをはじめとした徹底した情報統制を布(し)き(そして米軍にのみ、SPEEDIのデータを提供し)、民をあたら被曝させた菅直人・民主党政権から。
さらにいま、そのより深刻化した形態として、憲法9条が存在しているにもかかわらず、国会承認もないまま、〝外遊〟先の中東で独断で「対テロ戦争」への参加を表明し、事態を不可逆的に深刻化させた現内閣総理大臣・安倍晋三の振る舞いがある。
しかもその責任を精確に糾すべき国会は、この最も重大な経緯をとうてい追及しきれず、結果として看過し、事実上、翼賛的に追認するものとなった。(**)
** この重大な問題における安倍の責任を、かなりの程度まで闡明(せんめい)しようと力を尽くした、山本太郎・参議院議員、ただ1人を除き。
もとより大半が腐蝕しきった既存の「制度圏」メディアが、こうした政府の宣伝・広報機関に堕していることは言を俟(ま)たない。
いまや、ほぼすべての権力が、現内閣総理大臣・安倍晋三に集中し、それに掣肘を加えるものが何もない。
だが権力は、その成立が形式上、よしんば「適法」であったとしたところで、それは当然、当該権力がそれ以後も、憲法をはじめ、諸法規を遵守してゆくことを無条件で担保するはずもない。
そして、現実にそれが運用されてゆく過程で恣意的な拡大解釈や〝弾力的〟運用がとめどなく繰り返されるなら、当該権力は必然的・加速度的に当初の拘束を逸脱し、極めて高い確率でファシズムとなるのだ。〝ナチズムはヴァイマール憲法から生まれた〟との歴史諸家の洞察を引くまでもなく。
問題は小選挙区制その他、この国の欺瞞に充ち満ちた政治制度にも、当然、一定程度は由来しよう。
だがそれはそれとして、何より「景気回復」「経済対策」を公約として行なわれたはずの2014年12月の総選挙が、終わってみれば軍国主義ファシズムを是認したかのごとき、「改憲」に向け驀進する政権の正体を現わすことそれ自体が、由由しき「違約」——有権者国民への裏切りにこそほかならない。(***)
*** そもそも、この政権が折りに触れ。標榜してみせる「最重要課題」なるものそれ自体が、異様に恣意的で機会主義的、曖昧である。
本年3月11日には、安倍は政権の最重要課題が「震災復興」であるとうそぶいた。当人がもとより毫もそんなことを考えていない事実は、「東京五輪」招致時のペテンに満ちた発言から、言うに事欠いて復興の「起爆剤」なる、怖気を覚えるほどに不適切で粗雑な言辞をもって設置された空間線量の電光掲示板が「5μSv/h」を表示するという常軌を逸した常磐自動車道〝開通〟にも端的に看て取られよう。
これら、およそ政治家としての資質の根底が破綻した、言葉に関しての非論理性・没倫理性・没人格性の不規則ぶりは、安倍晋三をめぐる一切の事象について、厳密な理性的考察を試みる意欲そのものを沮喪させるようだ。
だが、それこそが安倍らの思惑でもあるのだと考えるとき、厚顔な愚者の中途半端な企みを無限に忖度し、さまざまな「類推」を重ねるという、一見、不毛とも思われる努力をも、私たちは最後まで手放してはならないのだとも、改めて感ずる。
とりわけ昨年7月の「集団的自衛権」なるものの〝閣議決定〟以来、『日本国憲法』前文および9条は、事実上、その機能を停止している。
そして、こうした常軌を逸した状態が、国会も、現時点に至るまで最高裁判所も現実に制止できない状態で、続行・深化している。
なぜ、その明明白白たる事実を、人は認めようとしない?
政府が、憲法を停止させている——それは事実上の戒厳状態(の1つ)ではないのか?
(そのことから、このかん何度も述べてきたとおり、私は1980年代から用い、当ブログのタイトルともしている「精神の戒厳令」なる概念では、もはや事実上、この国の現在は追いつかない段階に突入していることを感ずる)
かつて羽仁五郎は、第96条に『日本国憲法』改悪阻止の〝安全装置〟を託した。その、現行憲法成立時の日本最高水準の知性すらも、くだんの96条が機能するはるか手前で、白昼堂堂と安倍晋三政権によって行なわれている憲法機能停止が、メディアと大衆社会の分厚い「沈黙」により、公然と追認される——この悪夢のごとき光景だけは、想像していなかったに違いない。
現・安倍晋三内閣は、明らかに「開戦」(戦争開始)を視野に入れたそれであり、そのことがこの政権における、「戦後」類例を見ない、空前の極めて高い危険性を成している。
忌憚なく言うなら、相手が誰であれ、場所がどこであろうとれ構わない——。ともかく日本国憲法を踏み躙り、戦争に突入することが、ア・プリオリに、一義的に自己目的化した政権としての相貌を、安倍晋三のそれは露わにしつつある。
集団的自衛権の容認とは――自衛隊「海外派兵」恒久化とは、「周辺事態」の拡大解釈とは、 そしてアメリカの先制攻撃への追随とは、すべてそうしたことではないのか?
戦前の「統帥権」の存在下、陸相・参謀総長を兼務するという極めて変則的なしかたで、自らへの権力集中を企図した、日米「開戦」時の内閣総理大臣・東條英機すら、それをおそらくは渇仰しながら果たし得なかった、次元を異にする権力の一極集中——フリーハンドを、逆に「象徴天皇制」の『日本国憲法』下、いまや悪夢のごとき傍若無人ぶりを以て掌中に収めきろうとしているかに思われるのが、現内閣総理大臣・安倍晋三である。
それは、少なくともこの国の近代立憲制にかつて類例を見ない——あえて言うなら——〝近代西欧型〟の独裁であり、その手法は現副総理・麻生太郎が2013年7月、愚かにも、また恥知らずにも公然と揚言した、まさにその通り、「ナチスの手口」に酷似している。
そして、にもかかわらず政府閣僚・自民党議員らのいかなる暴言・妄言もその責任を問われることのないまま、すべてはことごとく看過され、野党議員をはじめとする「日本国民」の異様な沈黙のうちに、最終の破滅は刻刻と近づいている。
付言するなら、「国民主権」と「象徴天皇制」という、実は明白な矛盾を含んだ現『日本国憲法』のある意味で曖昧な間隙を衝いて、いまや無人の野を行くがごとき安倍晋三の独裁は、実のところ『日本国憲法』の「国民主権」的側面が遠望したはずの真の民主主義を、おそらくはついに築き得ずにきた——この国の「戦後」の惨めさを、集約的に表徴している。
むろん、たとえば前述の東條の権限をも本質的に凌駕した、権力としての次元を異にする絶対的天皇制が、それでは軍国主義ファシズムにおいていかなる役割を果たしたかは(ほとんど主客が顚倒するほどの)別の問題であり、その実相は歴史が示しているとおりである。
だが今回、私が指摘しているのは、現在の安倍晋三政権の性格が、それら戦前の内閣と天皇の権限を明らかに合一化したものとなりつつあり、しかもこのかんの展開に示されるように、一方で自ら、軍(と敢えて言う)に対する「文官統制」「文民統治」を限りなく無力化させつつ、また自らに追従するマスメディアにおいて為さしめている、天皇・皇后・皇太子らの「護憲」発言の取り扱いに顕著な、旧来の日本の政治史に類例のない、まさしく「戦後」型のファシズムの形なのだ。
東京電力・福島第1原発事故の直後、現天皇によって発された国民に向けての〝緊急メッセージ〟は、その性格をいささか異にするものと私は考えるが、それ以降——「3・11」1周年における天皇の「お言葉」(****)、2013年10月の「79歳会見」での皇后の「お言葉」、 同年12月の「80歳会見」での天皇の「お言葉」、 2014年2月の「54歳会見」での皇太子発言、翌年の今年の「55歳会見」での皇太子発言……等等、時を追うに従い、明白かつ切迫した危機感に満ちた天皇・皇后・皇太子の「護憲」発言と、それに反比例して、〝公共放送〟NHKをはじめとする「制度圏」メディアがそれらを無視黙殺し、安倍晋三の「改憲」軍国主義ファシズムに翼賛する光景は、このかんの事情を語って、あまりにも象徴的である。
**** この「3・11」1周年に際しての天皇の「お言葉」の放送カット問題に関しては、私は2013年1月18日のドイツ《緑の党》デュッセルドルフ支部に招かれ、同市で行なった講演『福島原発事故とその現状——核破滅ファシズムの国・日本から、残された世界を防衛するために Fukushima und die Folgen 』その他においても言及している。
実のところ、現下の絶望的状況にあっては、天皇・皇后・皇太子のそれら「護憲」発言自体については、私自身も多とする部分がある(この問題は〝「戦後」民主主義〟の本質に関わり、それ自体、1冊の本にまとめるに値するものだが、ここではとりあえず詳述しない)。
また、いわゆる「護憲」論者がそれをどう評価するかは別として、現に『日本国憲法』がその第1章・全8条を挙げて「象徴天皇制」を規定し、またこの憲法自体、昭和天皇の「御名御璽」によって閉じられている以上、皇族がその『日本国憲法』の尊重を語ること自体、当然であり、なんら越権行為ではあるまい。
問題は、主権者国民・日本民衆の側にある。すなわち、所詮この国の〝「戦後」民主主義〟とは、その程度のもの——「象徴天皇制」の「非政治性」「脱政治化」をめぐり、ある局面状況——危機的な段階にまで至らぬうちはそれを当然としながら、いったん風向きが変わり、ファシズムの進行が容易に留め難いものとなった最後は天皇・皇后・皇太子の「護憲」発言に助けを求めるしかない、二重基準のものでしかなかったということだ。
なんと絶望的な話だろう。これが「主権在民」を高らかに謳ったはずの『日本国憲法』の末路だとは!
だが、これこそがまさしく、私たちの絶望的な現実、絶望的な現在の姿でもあるのだ。
そして実は、結局のところ天皇らの「明察」や「善意」に依存する〝「戦後」民主主義〟の脆弱さは、2011年3月11日——東京電力・福島第1原発事故という「この世の終わり」を経験して初めて露呈した現実でもない。
その証左の1つとして、2005年早春に私が草した小文を、以下に引いておこう。
《国定規格A5判一五六頁、「昭和十二年五月」初版発行——。言わずと知れた本書は、十五年戦争のまっただなかに国民教化のため編纂された一大マニフェストにほかならない。
ただし、私の手にしているのは、翌翌年九月発行の第四刷である。水茎の跡も鮮やかな記名が残る元の所有者は、当時、東海地方の旧制中学五年生だったようだ。三刷までで合計三十八万部発行と、奥付にはある。
「臣民が天皇に仕へ奉るのは所謂義務ではなく、又力に服することでもなく、【止み難き自然の心の現れ=傍点】であり」「天皇は」「ひとり正しきを勧め給ふのみならず、悪しく【枉/ルビ=まが】れるものをも慈しみ改めしめられるのである」(傍点とルビ、引用者)
全篇を通じ、天皇は他のいかなる「君主」とも、日本は世界のいかなる君主国とも違うことが、執拗に主張される。「帝国憲法は」「『みことのり』に外ならぬ」……!!
それは裏を返せば、日本人は普遍的な意味での「人間」ではないと規定されているに等しい。「民主主義」も「自由主義」も天皇機関説も、ここでは周到に排撃される。
その一方、何より価値を置かれる概念は「和」なのだ。「要するに我が国に於ては」「すべて葛藤が終局ではなく、和が終局であり、破壊を以て終らず、成就によつて結ばれる」
……果たして、これらは過去の亡霊に過ぎないか? 羽仁五郎をもじるなら「『國體の本義』は生きている。疑う者は、日本を見よ」——。
昨秋の「園遊会」で、とある東京都教育委員が天皇に対し「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させる」ことが自らの任務だと揚言した。これもむろん、おぞましい。だがこの暴言に、天皇はなんと応じたか。
「やはり強制になるということでないことが望ましい」
これこそ日本が、その「國體」の底知れぬ相貌を戦後再び、垣間見せた瞬間であった。
強制が良くないのは当然だ。しかし、人が「内心」から“自発的に”動かされてしまうことは、ある意味でさらに恐ろしい。そして「強制」に抵抗するはずの側が、もしも天皇のこの言葉に力を得たと言ってしまうなら、そのとき新しい「和」のファシズムは、また一歩、完成へと近づいているのだ。》
(山口泉『「和」のファシズムの泥沼的恐ろしさ——文部省編纂『國體の本義』=内閣印刷局・発行=批判/『週刊金曜日』2005年3月25日号=550号=文化欄)(*****)
****** 以上は、『週刊金曜日』入稿前の草稿である。大筋においてほとんど異同はないが、細部に関しては、コンピュータ内のテキスト・データを用いる際の常として、校正紙段階での著者校正が反映された、『週刊金曜日』2005年3月25日号掲載の最終発表形ではないことをお断りしておく。ちなみに、文中の「東京都教育委員」とは、日本将棋連盟棋士の米長邦雄。
まさしく、偽りの「戦後」のありとあらゆる「つけ」は、「3・11」——東京電力・福島第1原発事故を経て、いまやこの度し難い国のすべてを圧し潰そうとしている。
まことにもって、絶望的な事態である。そしてこれは実は〝「戦後」民主主義〟の当初から——ないしは少なくとも極めて初期からの「敗北」の問題として捉えられなければなるまい。
『日本国憲法』がその根本の理念たる「国民に保障する自由及び権利」を、国民自身が真に自らのものとする——憲法第12条が明示する、そのための「不断の努力」を、にもかかわらず徹頭徹尾、疎(おろそ)かにしてきた、あまりにも苦過ぎる結果として、現在のこの絶望的な事態はある。
いかにも、その「努力」が現在にいたるまで、ついに為し得なかったのなら、それはいま、するしかない。
私たちがいま、直面しているのは、日本の〝擬似「近代」〟史上、かつて存在しなかった、「戦前」「戦後」のいかなる時期における天皇制よりも鞏固(きょうこ)な権力集中を図ろうとする新たなファシストによる「独裁」の危機である。
そして、この国の「民主勢力」は、そうした支配者との闘いのメソッドを、ほとんど持ち合わせていないかのようだ。それ以上に、かかる未曾有の危機についての認識すら、いまだとうてい十分ではないかのようだ。
安倍晋三政権による「改憲」策動まで、残された、あと僅かな回数の選挙での懸命の意思表示と、併せて広汎な大衆行動の人民戦線的な連帯の構築できるか——。
疑いなく、いま私たちに問われているのは、その——おそらくは——最後の可能性に賭ける「覚悟」であろう。
それが、たとえどんなに脆弱な、見込みの薄いものでしかないとしても。
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by uzumi-chan
| 2015-03-21 03:20
| 【C】夜の言葉