国家主義の無法が蹂躙する焦点の地での、人間の存在証明——名護市長選挙が示したもの


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


国家主義の無法が蹂躙する
 焦点の地での、人間の存在証明

  ——名護市長選挙が示したもの

肯わぬ者からの手紙〔第001信〕





 日本国家の版図における選挙結果に接し、目頭が熱くなるという思いをした経験は、このかん、記憶にない。
 もしかしたら、初めてのことであるかもしれない。
 
 今夜、普天間基地の「辺野古移設」に断固反対する現職名護市長・稲嶺進氏「再選」のインターネット速報(『沖縄タイムス』電子号外/2014年1月19日付)を目にした私が、それをツイッターで発信した後に行なったのは、「祝杯を上げる」ことではなく——翌朝、炊(かし)ぐ予定の玄米を研ぐことだった。

 ——当ブログ別稿の日録【B】『帯電した、巨きな雲がうごくように……』でもいずれ言及する予定の若干の事情もあり、年が変わってから、私が酒を口にしていないせいばかりではない。
 何より、この大反動のファシズムのただなかにあって、今回、名護市民により示された抵抗の意思は、人に「生きる」という作業の根底の懐かしさへの回帰を促すものだった。たとえ、それが……すでに現時点でも容易に視認し、列挙し得る、どれほど多大な困難に充ち満ちるものであったとしようとも。
 だから、今回の選挙結果を敬い、祝う上で、自らが食(は)む米を研ぐことは極めて似つかわしい行為のように私には思われた。……何より、この時期、沖縄といえどもそれなりに「寒い」日日が続くなか、水仕事を始めるには、なんらかの弾みが必要なのだ。

 このかん、投票日が近づくに従い、日本政府・自民党とその意を受けた沖縄県知事らが、恥も外聞もなく、持てる総力を投入して現職を追い落とそうとする、甘言と恫喝とが表裏一体となった——私見では、人倫にも悖(もと)り、また法的な疑義をすら感じさせる、その異様な「選挙戦」の果てに、こうした誇り高い選択をなし得た名護市民に敬意を覚える。
 そして昨春以来、私自身、過去四半世紀ちかくにわたり、数十度、「旅行者」として来訪したのではない、「移住者」としてそこに加わった「沖縄県民」の一人であることに、襟を正させられる思いがする。

 ——以下は、昨夜までにそのおおよそを準備していた草稿に、今夜の選挙結果を踏まえての若干の削減と整合とを加えた論攷(ろんこう)である。
 時間の関係もあり、必ずしも十分な推敲を施したものではないが、とりあえず今回の場合、迅速さを優先し、新規『肯(うべな)わぬ者からの手紙』カテゴリーの第1信として公開しておく。


       


 このたびの名護市長選の帰趨に関しては、日を追うにつれ、情勢が必ずしも楽観を許さない——「辺野古移設反対」を明確に主張しつづけてきた現職の稲嶺市長と「移設推進派」の対立候補との勢力が、予想外に拮抗しているとの印象が、地元紙の報道を見ても、強まっていた。

  ちなみに、ヤマト=日本国家の「制度圏」メディアに較べたとき、沖縄の新聞——私が日常的に目にする『沖縄タイムス』『琉球新報』は、いずれも明らかにその存在する位相を隔てた……すなわち、メディア本来の歴史的・社会的・政治的責任の意識と主張を明確に具(そな)える媒体である。さまざまな次元にわたって顕著な、その自立した主体性は、古風な言い方をするなら「社会の木鐸(ぼくたく)」たる新聞本来の当然あって然るべき姿を、現在もなお——ないし相対的には、むしろいよいよ明らかに——示しているとも言える。


 一方で東京電力・福島第1原発事故という、もはや収拾不可能の歴然たる破局を抱えながら……明らかにそれを隠し、そこから民心を逸らそうとするかのごとく、いよいよ凄まじい国家権力の専横をほしいままにする、このかんの政府・自民党の暴政は、その長年の「対米従属」の〝党是〟との関連**も含め、他の46都道府県のいっさいと次元を異にする形で、とりわけ沖縄を直截の標的として、その空前の暴虐を繰り返してきた。
 あらゆる意味でいかなる論理的必然性もない、 普天間基地の「辺野古移設」計画、そして昨年末の仲井真弘多知事による、明白な公約違反以外の何物でもないその容認は、一連の政府・自民党の横暴の総和の、ある種、結節点とも見做(みな)されるべきものだろう。

 ** ただし、これが単に「対米従属」のみの結果だと言ってしまったとき、実はそこから抜け落ちるものはないかどうか——。
 私は、一連の問題を考えるにあたり、昨今の政府・自民党の加速する前近代的な……すなわち時代錯誤の——超国家主義、積年の沖縄差別、そして東京電力・福島第1原発事故の影響との関連をも疑うに足るこの地への陰湿な憎悪の投影についても、視野に入れておく必要を感じている。


 このかん、沖縄の地に自らの生活を営もうとしてきた私自身、ウチナーの民衆の憤りと一連の暴虐への根源的な抵抗の意思は、たえず全身に感じてきたつもりではある。また、そこに連なりたいとの思いも、当然のことながら、携えてはいる。
 そうした立場からするなら、投票日が近づくに従い、支持率の接近や容易ならざる情勢の緊迫が伝えられる事態には、いささかならず懸念を覚えもしていた。

 今回、市長選に閣僚・党幹部を挙げての投入や、仲井真知事をも動員しての、もはやなりふり構わず開き直った強権的な「移設推進派」候補への政府・自民党応援ぶりは、「基地は政府が決める」と、住民「自治」の概念***を根底から否定する暴言を発した自民党幹事長・石破茂が、さらに選挙期間の終盤にいたって、臆面もなく500億円の「基金」の「創設」を示唆するにいたり、その常軌を逸した展開の異様さを極めた。

 沖縄の歴史と現在に対する、すべての現実的な道理、そして人としての情理を平然と蹂躙(じゅうりん)しようとする、この政府・自民党の低劣な横暴は、単に胸が悪くなるよう……と形容しているだけではまだ済まされない——まさしく生木を裂くような人間性への侮辱・加虐としてあり、この世にかくも卑しい権力が存在することを思うだけで、全身の血が滾(たぎ)るがごとき、それは日日だったと言って良い。

 *** 通常、当然のように——しかし、実は不用意に——用いられている「地方自治」なる言葉に関しては、それ自体が言語矛盾であるとする羽仁五郎の指摘が、かつてあった。ルネサンス期のフィレンツェに「自由都市」の理念を観た思想家の言葉として、記憶に留め置くべき見解であろう。


 そもそも、石破茂による、この500億円「基金」の提示など……もはやこれは、明明白白たる「利益供与」ではないのか? そして私は日本国の主権者・納税者として、かかる卑劣な策謀に同意した覚えもなければ、そうするつもりもない。
 しかもこうした行為を繰り返しながら、一方で、いかなる視点から検討しても理不尽極まりない、知事・仲井真弘多に強いた「辺野古移設」容認に関連して——どのような錯乱した没論理的思考の結果か、「ゆすりとたかりの名人」「盗人」云云と沖縄民衆を貶(おとし)める「首相官邸フェイス・ブック」への侮辱的書き込みを、明らかに意図的に放置する政府・自民党の姿勢****は、さらにあまりに卑しく陋劣(ろうれつ)である。

 **** 『琉球新報』2013年12月31日付
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-217328-storytopic-1.html


 そしてまさしく今回の名護市長選の結果は、沖縄民衆へのかかる不当な誹謗中傷を、改めて根底から否定し尽くし、さらに高い人間性の存在証明を示したものにほかならなかった。
 「基地に頼らない地域振興」を言明しつづけた現職・稲嶺進市長を選んだ名護市民は、単に国家権力が浅ましくも思わせぶりにちらつかせて見せる「代償」「利益」を拒絶しただけではない。——いったんそれを拒絶すれば、たちまち豹変してその暴虐な牙を剥き出しにすることが疑いない彼らに対する、明白な抵抗の意思表示を果たしたのだから。

 このかん、国際的な場(2013年9月25日、ニューヨークの保守系機関での演説)において、一国の行政の最高権力者たる立場にありながら、自らを公然と「右翼」「軍国主義者」と肯定して悪びれず開き直り、〝戦後日本〟68年の末に一挙に歴史の反動化を半世紀以上分も進めた感のある独裁者——まさしく、A級戦犯から「戦後日本」をアメリカに売り飛ばした最大の悪宰相・岸信介の係累*****として、その衣鉢を継ぐファシスト内閣総理大臣・安倍晋三。
 「ナチズム」を公然と礼讃しながら、しかもいっこうにその政治的命脈を断たれる気配もない副総理・麻生太郎は、同様に戦後史に重大な責任を負う吉田茂の係累だ。
 そして安倍の語る軍国主義像をさらに「体現」した存在ともいうべき自民党幹事長・石破茂は、このかん「日本」全体に対してのそれに加え、より特異的に沖縄をその加虐と侮辱の標的としつづけてきた末に、今回の名護市長選において、前述の500億円の「利益供与」の非道に前後し、基地は国家の専権事項だと公言した。これは、住民「自治」のみならず、そもそも選挙の自立性——ひいては「主権在民」の概念そのものを根底から否定し去る、近代民主主義そのものを空洞化する暴言である。廃藩置県当時の明治政府の、ないしは軍国主義下の内務省官僚の意識の憚ることもない、いっそうの露出にほかならない。

 ***** むろん、本来の「個」対「個」たる人間関係において、その「係累」「血縁」の要素は捨象され、否定されるべき属性に決まっていよう。だが、ほかならぬこれら権力者においてこそ、その階級制・支配構造の「継承」再生産は、まさしくそれら「閨閥」「門閥」をほぼすべての既定条件として行なわれてきている以上、少なくともそれら権力者における「係累」「血縁」は、最後の最後まで、徹底的に問題とされるべき事項である。何より、そうした前提なしには、そもそも安倍や麻生ごとき愚劣な手合いが、今日の地位を占めることもまたあり得なかっただろう。


 これら、誰憚ることもない国家主義者・ファシストたちが、いまや憲法をはじめ、夥しい下位法に明白に抵触する疑いの濃厚な非道を公然と繰り拡げ、しかも本来「主権在民」を謳った、その『日本国憲法』が、少なくともまだ機能しているはずの日本国において、恐るべきことにそれを止める手立てが事実上、ほとんど奪われているという……日本国大衆がいっさいを拱手(こうしゅ)傍観してきたかの感のある、この絶望的状況において、沖縄本島北部の1都市が今回、示した「抵抗」の意思は、単に基地移設反対・辺野古埋め立て反対というだけでない——いま猛然と進む、この悪夢のごとき国家主義・軍国主義そのものへの、歴史的な拒絶の意思表示となった。
 むろん、あるいはそのことは、名護市民・沖縄民衆の本来、一義的に望むところでは必ずしもないかもしれない。その当然の可能性、そしてそれ以上に日本国家により構造的に帰属してきた立場の者から安易に論(あげつら)うべき事柄ではないという大前提を認識しつつも******、この尊い「抵抗」の意思に、やはり私は深く打たれる。

 ****** 一連の文脈において、私が「日本」と記す、狭義の「ヤマト」と沖縄との関係——また今春まで東京に暮らし、現在、「新参」の沖縄県民としてある私自身の自己諒解に関しては、小著『避難ママ——沖縄に放射能を逃れて』(2013年/オーロラ自由アトリエ刊)、小文『〝戦後日本〟の果てに——東アジアと「フクシマ」』〔上〕〔中〕〔下〕(『沖縄タイムス』2013年11月4日~6日付・文化欄)にも記してきた。むろん今後とも、この問題は継続的に直視してゆくつもりでいる。
 なお現在、『週刊金曜日』テープ版読者会の皆さんによる「音訳版」の製作が進行している前者、またこのほど、関西在住の、りみおさんによる朝鮮語訳が完成した後者については、また当ブログで改めて御紹介したい。



       


 問題は何より、沖縄の現状に関してばかりでなく、あらゆる次元、あらゆる位相、あらゆる領域にわたり、とりわけ2011年3月11日以降、かかる最悪の軍国主義の伸長、ファシズム国家の完成を、好むと好まざるとにかかわらず、結果的に底支えしてしまっている日本国大衆の意識にある。
 東京電力・福島第1原発からの放射性物質に、空前の被曝をさせられつづけながら……そしてそのことを、おそらくは程度の差こそあれ、それなりに自覚もしながら——それらすべてを漠然とした不安と曖昧な諦め、さらにはこれまで幾度となく「常用」してきた、ある種、自虐的な「開き直り」の上に、結果として現状のすべてを容認してしまうという本末顚倒した絶対的受動性は、すなわちその被害の及ぶ範囲が日本にのみ留まらない他者への受動的加害者性として、現状、これまで以上の重大な加担責任を伴っている。

 今回の名護市長選の結果は、単に1市長選のそれではない。私たち日本国家に帰属する一人一人が、国家に殺されないためにどうあるべきかを示した光景にほかならないのだ。
 当選確定後、選挙対策事務所から中継された稲嶺候補の、まさしく声涙下るインタヴューと、そしてその後、彼が支援者たちと踊るカチャーシーの躍動するテレビ映像(OCN=沖縄ケーブルネットワーク)に胸を打たれながら、市長が健康と身辺の安全により留意しつつ、この困難な闘いを持続することを切望する。

 稲嶺市長は、かねて市長権限を最大限に行使しての「辺野古移設」への抵抗を示唆している。市長と名護市民は、今後、直截、日本の空前の国家主義そのものと対峙してゆくことになるだろう。すでに国家を挙げての抑圧を明言している権力との、かつてない困難な闘いは、目睫(もくしょう)の間に迫っている。
 だが少なくとも、今回、その「抵抗」の根拠が、市長選挙という最も明確な形で確認され、共有された事実の意味は、計り知れず巨きい。闘いは、持続されることそれ自体が間断ない勝利でもあるのだ。

 そして言うまでもなく、このたびの選挙結果は、日本国家へも、そう自覚するとしないとにかかわらず、その根底を支えている大衆の責任の問題としてフィードバックされなければならないだろう。最も差し迫った問題として、東京都知事選挙がある。
 残念ながら、問題の切実な当事者性の意識が、いまなお稀薄な東京において、結果として名護市長選よりはるかに複雑な——周到に意図された混乱と分断の策動がすでに何重にも張り巡らされてしまっているこの東京都知事選を通じ、真っ当な「反原発」都政の成立を阻もうとする、欺瞞に満ちた似而非(えせ)〝脱原発〟の恥知らずな撹乱*******をどう乗り越えるか。
 このことは、必ずしも容易ではない。

 ******* これについては、これまでも当ブログ『精神の戒厳令下に』〔東京電力・福島第1原発事故〕カテゴリーや、そこから生成した『原子野のバッハ——被曝地・東京の三三〇日』(2012年/勉誠出版刊)、またツイッターにおいて、私の考える〝戦後日本・5大悪宰相〟の1人、小泉純一郎の歴史的・政治的責任の問題として言及してきた。加えて今回、事態の悪質な深刻さに鑑(かんが)み、『精神の戒厳令下に』の改編に伴ってこのたび新設した本カテゴリー『肯わぬ者からの手紙』でも、追って詳述したいと考えている。 


 そうした、より展望のない全体状況のなか、沖縄民衆の抵抗は、むろん日本国家の「賦活」のために存在しているわけではない。
 だが、その自明の事実を確認しつつも、なお真に人間の尊厳に満ちた抵抗の意思表示に感銘するのもまた自然の感情であり、そして日本国家がこのままファシズム・軍国主義の自滅へのプログラムを完遂することは、とりもなおさず沖縄はじめアジア圏の全域、さらには人類にとっても切実な脅威そのものである以上、それを阻止することは当然、被害を受けるすべての人びとにとっても切実かつ喫緊の課題であることも、また言を俟(ま)たない。

 沖縄北部・山原(やんばる)の、ヤマトの平均からすれば小さな1都市が、いま自ら引き受けることを決意した、この非道な国家主義の無法への、果てしない、容易ならざる抵抗の闘いに、満腔の敬意をもって「連帯」を表明する。
 新参の沖縄県民として。また、一人の人間として——。





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by uzumi-chan | 2014-01-20 10:22 | 【A】肯わぬ者からの手紙

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