いま、新しい「ゼネスト」の構築は可能か? 〔反戦・平和〕第5信


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


いま、新しい「ゼネスト」の構築は可能か?——【緊急提言】ファシズムの完成を瀬戸際で食い止めるために〔後篇〕






 結論から言うなら、冒頭に述べたとおり。
 状況は末期的であり、事態はいよいよ絶望的である。

 だが、むろん、抵抗は最後まで続けられねばならない。これはもとより「勝算」の問題ではなく、「人間としての尊厳」の問題——私個人に即して言うなら、単純に「自尊心」の問題なのだから。

 今夏の参院選後、すでにここまで一気に事態が悪化したなかで、容易に方策はないというのが、どう考えても明白な事実だが……それでも方向性としては、国会(この場合「国会」とは、本質的には——真に、真に震撼させられるべきことに——実はいま、山本太郎・参議院議員ただひとり!)と、大衆との連動の回路を、たとえどんなに手遅れだとしても模索するしかない。それが、論理的思考の必然の帰結というものである。

 特定の個人が突出すること・特定の個人を突出させること(偶像視すること・英雄視すること)は、もともと私が、最も忌み、厭(いと)うところである。
 また「議会制民主主義」における方法論としては、羽仁五郎が提案したとおり「野党第1党に投票を集中する」ことが、本来、最初に採られるべき選択であることも言うまでもない。
 その意味で〝山本太郎といえども、一人で何ができるのか〟という反問は、それ自体は決して間違ってはいないし、また私自身、今夏の参院選における若年層大衆の投票行動において、(山本氏に対してではないが)一部の人心の動き方には、一定の留保を以て危惧する部分があった。

 ところが、先般の選挙があのような結果に終熄し、さらに今回の『東京五輪成功決議』ファシズムに見られるとおり、日本国会には、もはや言葉の本質的な意味での「野党」など、すでにどこにも存在していないことが、無惨なまでに明るみに出てしまったのだから、おのずと問題は変わってくる。
 かくのごとき大政翼賛国会で、よしんば東京電力・福島第1原発事故や『秘密保全法』をめぐり、どんな〝パフォーマンス〟をして見せようと、それは所詮、馴れ合いの、アリバイ作りのパフォーマンスにほかならず、『朝まで生テレビ』と選ぶところのない筋書き通りの〝言論プロレス〟にすぎないだろう。敗れた議員たちは、しかし自らの選挙区に戻り「力の限り敢闘しました」「善戦して、惜敗しました」と報告しさえすれば……それで済んでしまうのだから。

 だとするなら、現状、山本太郎議員と「日本民衆」との連動が、国会という回路を通じての抵抗としては、いまや残された唯一の可能性であるという結論に逢着(ほうちゃく)せざるを得ない。
 すでに25日とも言われる『秘密保全法』閣議決定には、もう間に合わないかもしれない。だが、それ以後の段階でも、最後の最後の最後まで、抵抗は続けられねばならない。

 具体的にどうするというのか? 
 それに関しては、やはり竹内や羽仁ら、「戦後日本」における最高水準の知識人たち**が一つの方策——おそらくは唯一の方策を示している。
 しかもそれは——先回りして言っておくなら、実は現状の日本においては、ただちには(すでに)実現不可能な方策でもあるのだが。

 《ファシズムの暴力に対抗する手段として、国民は労働組合に実力行使を要求する権利があるし、労働組合はそれに従う義務がある》
               (竹内好『民主か独裁か』/1960年)

 《現在、戦争をふせぐ、あるいは独占資本がわれわれの人間性までも管理するという動きに抵抗する、政治の腐敗をふせぐというときにどうしたらいいか。ひとりひとりがバラバラに闘うというのは、容易ではない。やはりわれわれは組織をもち、その組織の力によって闘うという方法が、もっとも有効だろう。そう考えると、やはり中心は今でも、労働組合ということになる》
               (羽仁五郎『君の心が戦争を起こす』/1982年)

 前述した問題とも関係するが、「組織」をむやみに蔑(なみ)する者、むやみいたずらに〝自由な個人の自由な集まり〟を賞揚する者は、警戒した方が良い。とくに、いまのような末期的に苛烈な状況にあっては。
 そうした者たちの意図は、実はおそらく慎重に検証される必要がある。

 しかしいずれにせよ、長い長い「戦後」の時間を経て、基幹産業の労働者たちの団結権・争議権が事実上、ことごとく封殺され(70年代・80年代を通じての「労働者」と「大衆」のなんと見事な分断!)、「総評」が「連合」に取って代わられ……というその後の展開は、さすがの羽仁・竹内らにとっても、もはや〝万策尽きた〟とも映るものかもしれない。
 もっとも、さらに彼らの世界観を——というより、誰の世界観をも——決定的に超えた事態として、ほかならぬ東京電力・福島第1原発事故があるわけだが——。
 (少なくとも羽仁に関して言うなら、彼の問題把握のなかには、まったく原発に関するそれがなかったわけではない)

 ** ただし、むろん羽仁や竹内にも、一定の限界はある。その、時代的制約・階級的(学歴的)制約・ジェンダー的制約……等等によって。


 では、そうした時代的・状況的隔絶を承知の上で、しかもなぜ私は、あえてなお、羽仁や竹内の言葉を引き、「労働組合」の問題を再提示しようとするか? 

 その理由は簡単だ。
 それは、いま焦眉の急となっている事態が、もはや単に「国会」に——議員たちに請願の電子メイルやファクシミリを送っているだけで済む段階ではない……端的に言うなら、本来、ゼネストをもってファシズム政府と闘わねばならない末期的段階に入っているからにほかならないと、私が考えるからだ。
 ちなみに「ゼネスト」general strike は、羽仁が戦争を押し止める民衆抵抗の最後の武器と規定していた戦術でもある。

 念のため、付言しておくと、私は議員たちへ請願の電子メイルやファクシミリを送ることを「するな」とは言わない。またそれは、必ずしもまったく無意味とも言えないかもしれない。
 だがしかし、所詮——忌憚なく言うなら——いま、この期に及んで、『東京五輪成功決議』などに賛同するがごとき人びとに、まだ何かを「期待」し、ただ彼らの「良心」に仮託して、自らの命運をそれのみに任せるようなことなど、やめた方が良いとは思っている(議員——職業政治家という人びとの本質については、さらに言うべきこともあるが、ここではとりあえず割愛する)。
 そうした卑屈な依存心、事大主義、誰かがなんとかしてくれるだろう(はずだ)という没主体性が、結局、この国を——その偽りの「戦後」を、かくのごときものとしつづけ、そして現在の地獄に至らしめたのだから。

 だがしかも、現状はゼネストどころか、労働組合が事実上、機能しなくなって久しい。
 そして1960年6月に、国会を取り巻いた20万の大衆のエネルギーのかなりの部分が、いまはそれぞれのパソコンやスマートフォンに向かってツイートを打ち込むことに注がれている。***

 *** ただしこのことは、当然、正負さまざまな側面を、結果として持ってもいる。一方で、この状況の重要な因子として、やはり東京電力・福島第1原発事故が直接に影響していることも、やはり考慮はされねばならないだろう。
 小著『避難ママ——沖縄に放射能を逃れて』(2013年/オーロラ自由アトリエ刊)にも記したとおり、現状、最も有効な抵抗の手段は、私は広義の「避難」——〝「被曝」を避けること〟であると考えている。また逆に、昨年、私も参加したことのある首相官邸デモにおいて、簡易なサージカリー・マスクすらほとんど装着することなく、しかも幼い子どもたちを連れた参加者の姿も見られたことは、私を深く驚かせた。



 再び、ではいかなる道筋が残されているか? しかも、この時間の切迫した中で。

 本稿の最初から述べているとおり、精緻な具体的方策は、もとより、ない。すでに、そうした段階すら、実はもう過ぎているとも言える。
 だが、方向性として——あくまで「方向性」として言うならば——山本太郎・参議院議員に表徴される「国会」と大衆とを媒介する、かつての労働組合に代わる回路を、早急に機能させること、そして旧来の「ゼネスト」に代わる、大衆の総抵抗が、最初は部分的にでも「組織」されていかなければならないだろうという「方向性」は提示できる。

 ——そう記していて、むろん私自身、その実現可能性に茫然とする思いだ。何より、あまりにも時間がない。間に合わない。
 だが、それでもなお、抵抗は続けられねばならない。そしてその方向性とは、紛れもなく、そうしたものではないかと、現在、私は考えているということだ。

 旧来のゼネストに代わる、いまだ、かろうじてその地位から(憲法条文上は)引き下ろされてはいない主権者大衆として、いかなる「総抵抗」の意思表示の形を、現在の日本社会のなかに構築し直すことができるか。
 この数週間の期間に、「戦後」のみならず——さらには、日本のみならず——少なくとも東アジアに生きる人びとの生命や最低限度の人間的生活に関わる大勢が決せられつつある。


 最初の「註」を、忘れていたわけではない。
 私は現在の山本太郎氏に関しては、この夏、広島で何人かの友人たちを前に彼について語った際、引いた、やはり竹内好の以下の言葉を揚げておこう。
 《日本文学にとって、魯迅は必要だと私は思う。しかしそれは、魯迅さえも不要にするために必要なので、そうでなければ魯迅をよむ意味はない。私がおそれるのは、そのような魯迅を日本文学が権威にしてしまうことである》
                (竹内好『魯迅と日本文学』/1948年)
 おおまかに言ってしまうなら、この場合の「魯迅」を「山本太郎」に、「日本文学」を「日本社会」(もしくは「日本政治」ないし「現在の日本」に)置き換えて見るのが、私は山本太郎氏を支持するに際しての正しい態度だと考えている。


 






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by uzumi-chan | 2013-10-21 20:43 | 反戦・平和

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