擬似〝議会制民主主義〟の最終的終焉 〔反戦・平和〕第4信


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


擬似〝議会制民主主義〟の最終的終焉——【緊急提言】ファシズムの完成を瀬戸際で食い止めるために〔中篇〕






 私は今般、この決議に賛同した国会議員たちを許せない。
 彼らが他の場・他の局面で、何をどう語って見せようと、それがいかに空疎な演技・アリバイ作りにすぎないかをさらけ出している——『東京五輪成功決議』賛同とは、それほどの醜行にほかならないのだ。

 むろん今後も、私とて、時と場合によっては、それらのなかの「相対的にまし」な議員たちの存在を、それでも補完的に〝利用〟しようと考える局面がなくはないだろう。
 だが、人間としての本質的問題において、もはや、この『決議』に賛同してしまうような人びとと、真の「連帯」を構築することは不可能ではないかとも、また同時に考えざるを得ないだろう。

 それにしても——衆参両院に数多(あまた)国会議員が(掃いて棄てるほど)存在するなかで、この明明白白たる欺瞞に異議申し立てを為し得た者が、ほかならぬ山本太郎議員ただ一人だったとは! 

 事態の「末期」とは、これほどまでに包み隠さず、問題の本質を冷徹に暴き立てるものだということだ。
 ある意味、あまりにも見事ですらある——とも言えよう。
 この国に、いまも昔も「民主主義」など存在していなかったわけである。

 かつて〝なぜ戦争に反対しなかったの?〟と問うた人びと。問われた人びと。
 その答えは明らかだろう。いま眼前に——国会で起こっている展開を見るだけで良い。

 「大政翼賛」とは、まさしくこういうことを言う。
 絶望的事態である。

 念を押すまでもないが、この醜悪な「東京五輪」〝成功決議〟にはぬけぬけと賛成しながら、それでもなお「秘密保全法」には〝反対〟する(できる)つもりでいる議員・党派が存在するとしたら……それら当人たちは、救い難いまでにおめでたいか——むしろ、おぞましい欺瞞の極みだということだ。

 《決議を受け下村博文文部科学相は「オールジャパンで推進することが重要だ。成功に向け最善の努力を図る」と述べた。》(共同通信)

 言うに事欠いて得意げに持ち出して見せる、この舌足らずの、そしてその足らぬ舌の根が腐るがごとき「オールジャパン」なる、ぶざまなプロパガンダの、吐き気を催すファシズム。
 『はだしのゲン』への言論封殺にも、最後まで加担しつづける教育行政の最高責任者・下村某の——。

 もはや、覆いようもない。
 会期冒頭で、かかる〝パフォーマンス〟が行なわれたことは、今回の〝「戦後」扼殺(やくさつ)国会〟の帰趨(きすう)を明瞭に示している。収拾不能の原発事故を抱えた国に「五輪」なる愚劣なイベントを(最終的に実現するかどうかとは関係なく、とりあえずは)持ち込んだ者たちの意図は、十全に達成されたということ。「オールジャパン」——「大政翼賛」国会の、この体たらくに示されたとおり。

 その最初から、すでに本来の機能を停止している国会において、存続することのみが自己目的化している擬似「野党」は、もはや形だけ〝安倍政権に反対した〟アリバイ作りのプログラム以外、何も考えていないようだ。
 何度でも言う。くだんの『東京五輪成功決議』に、いま、国会議員として賛同したことは、人間としての崩壊である。

 いま、日本国会に議席を与えられながら——主権者から委託されながら しかも「野党」(!)を標榜しながら、あまりにも露骨な欺瞞に満ちた「東京五輪」〝成功決議〟に賛同した者たち。
 その賛同自体が卑劣であり、人間としての汚辱であり、眼前に進行中の巨大な非人道的行為への加担にほかならない。何を、どう言い繕おうと。

 最低限、いま「東京五輪」招致が、国際原子力ロビーのいかなる意図のもとに進められているか**——それすら見抜けない愚物どもに、「野党」議員を名乗る資格などないのだ。もしもほんとうに、それが見抜けていないとすれば、の話だが。

 ** 私の再三の主張だけでは不十分だと言うなら、たとえば以下を見よ。
 小著『避難ママ——沖縄に放射能を逃れて』(2013年/オーロラ自由アトリエ)の紹介を含む、『WEB RONZA』のコラム——福嶋聡『 「東京オリンピック招致」は、国際原子力ロビーにとっての進軍ラッパだ 』

 この〝「戦後」民主主義〟ないしは日本国「憲政」の末期的状況下、おのずから思い出されるのは、中国文学者・竹内好(よしみ)(1910年—77年)の以下の言葉である。

 《日本共産党にたいする私の不満をつきつめていくと、それは結局、日本共産党が日本の革命を主題にしていない、ということに行きつくのではないかと思う》
            (竹内好『日本共産党批判 一』/1950年)

 ひとり「共産党」のみではない。
 ここで「日本共産党」を「社民党」なり「生活の党」なりに置き換え、そして「日本の革命」(!)を「護憲」なり「反原発」なり「平和」なりに置き換えてみるがよい。そうすれば、今回の醜悪を極めた『東京五輪成功決議』の、現存する世界の根底を腐らせるがごとき犯罪性がよく分かるだろう。

 私はもともと、東京電力・福島第1原発事故以降の山本太郎氏の言動を高く評価してきたが、別に特段、彼のファンでもなければ「贔屓(ひいき)」をしてきたわけでもない。にもかかわらず、こうした立論をすることは、とりわけ他の国会議員との関係のなかで〝贔屓の引き倒し〟というものだろうか? 
 だが、実際問題として——いま『東京五輪成功決議』に賛同するか、しないかということは、本来、それほど巨きな、決定的問題にほかならないのだ。

  小著『原子野のバッハ——被曝地・東京の三三〇日』(2012年/勉誠出版刊)のp.356〜p.364、第125章「俳優・山本太郎氏に告発状」、第126章「人命に関わる事柄での非暴力直接行動として」、第127章「『正しく偏る』ということ」、 第128章「山本太郎氏が突出せざるを得ない国、日本」、 第129章「キム次長と原田左之助とを隔てるもの」の各章、およびその【補説ノート】(p.369〜p.370)、さらにこれらのベースとなった2011年9月の山口泉ブログ『精神の戒厳令下に』の各項を参照。


 余談といえば余談だが、今夏の参院選で山本太郎氏が当選してほどなく、彼の原則主義的「孤立」を、『治安維持法』「改正」時の山本宣治(1889年—1929年)に準(なぞら)える議論があった。卓見だと思うし、また山本太郎氏に「山宣」と同じ運命を強いてはならないと思う。
 それにしても、事態の展開は、ますます山本太郎氏と山本宣治との相同性を際立たせているようだ。 
 ではどうすれば良いというのか——と、あなたは問うのか? 

 あなたの答えはあなたが見いだすしかないものだ。
 ただ現状、私自身が思い描いている一つの方向性は、まったくないわけではない。はなはだ朧(おぼろ)げな、そして依然として抽象的なものにすぎないのだが——このぎりぎりの局面にあって、情けないことに、なお。


                         〔後篇に続く〕


 






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by uzumi-chan | 2013-10-20 04:53 | 反戦・平和

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