『東京五輪成功決議』という踏み絵を踏んだ者たちへ 反戦・平和(第3信) 


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


『東京五輪成功決議』という踏み絵を踏んだ者たちへ——【緊急提言】ファシズムの完成を瀬戸際で食い止めるために〔前篇〕






 状況は末期的である。

 東京電力・福島第1原発事故をきっかけとして一斉に継起したファシズムの策動をはじめ、さまざまな事態が深刻な危機的段階へと踏み込もうとしている。
 別(わ)けても、そうした事実を知らしめ、共有する回路そのものが根こそぎ奪われ、基本的人権が扼殺される「警察国家」への道を開くという意味で、現在の臨時国会で安倍晋三政権が成立を謀っている『特定秘密保全法』は、取り返しのつかないものとなるだろう。
 主権者国民が完全に情報から遮断された状態で、その内容も開示されることのないまま、国家に生殺与奪の権を委ねるという、本来なら、およそ21世紀の〝国際社会〟であり得ない——通用しようもない異様な事態が、いともやすやすと現出しようとしている。

 ……たったいま、《本来なら、およそ21世紀の〝国際社会〟であり得ない》云云と、私は書いた。
 だが、にもかかわらず、くだんの〝国際社会〟が、日本のこの事態を「見殺し」にしているのはなぜか? 
 実は、そこにこそ、アメリカの根底的植民地たる虚構国家——「戦後日本」の構造的問題と、いま進行しているこの世界的危機、かつて「新しい中世」と私が定義した、人間性の終焉するハイパー資本主義の地獄の本質があるのだが。

 (本稿では詳述しないが、私はもはやこの危機——「戦後日本」の破滅に際しては、いかなる〝救いの手〟も、もはや〝国際社会〟から差し伸べられることなどないのだ、との認識を、この国に生きざるを得ない者は持つほかないのだという結論に至っている)

  小著『「新しい中世」がやってきた!』(1994年/岩波書店刊)と、できればその前身たる、山口泉『新しい中世の始まりにあたって』(月刊『世界』1992年4月号~12月号連載)を参照。
 両者のあいだには、いくつかの事情により、少なからぬ異同がある。



 しかも、疑いなく「戦後」最大の危機ともいうべき、このファシズムの一気の実現とへ向かう『秘密保全法』の暴挙に関して、政府と「制度圏」ジャーナリズム——ほぼすべてのテレビや大半の新聞は、真っ当な意思表示はおろか、最低限の情報提供すら、満足にしようとはしていない。
 したがって、そうした堕落したメディアにのみ接するしかない人びとにとっては、いま進行しつつある危機の存在すら認識されないでいるというのが実情なのだ。

 沖縄で毎日、さまざまな方がたと話していると、相当に社会的関心の高い人において、『秘密保全法』の策動の内容それ自体をあまり御存知ない場合がある(もちろんヤマトにおいてそもそもその存在を認識している人びと自体、明らかに少数なのだが)。
 私の経験則で言うなら、およそ日本国家の版図に帰属する(帰属させられている)なかで最も鋭敏な政治意識を具えたこの地域で、にもかかわらずこうした情報格差が生じている事実は、これもやはりこのかんの私自身の見聞に基づく推測では、コンピュータの普及率——インターネット人口の問題と、明らかに無縁ではないような気もする。

 2011年3月11日以来、言っていることだが、現在の日本では「インターネットにアクセスできるか否かが生死を分ける」のだ。
 そしてまた、それこそが現在、躍起になって『秘密保全法』を推進する側の意図でもある。

〔追記〕
 同時に、原発事故・被曝の問題に関して、相対的に沖縄の方がたがそれを身近に感じない場合が多いと聞き、またこの理由は原発との物理的な距離が関係しているという意見にも接した。
 ただ一方、原発とは別に、「戦後」一貫して問われてきた米軍の核兵器の問題がある。『秘密保全法』に関しても、単に狭義の情報の回路の多様性の問題としてだけでなく、むしろそれ以上に、沖縄戦から米軍基地の現存へといたる、より直接的な状況の切実さが、問題の認識・把握の構図に差異をもたらしていることは、当然、ヤマトに帰属する者として考えなければならない。
 関連して、より精確を期すため、前段の表現を若干、改めた。〔2013年10月22日〕


 何より、発生したその当初から明らかに収拾不可能の、そしてもはや人類史上空前の危機である東京電力・福島第1原発事故をめぐる情報のいっさいを封印し、なんの展望もないまま、卑劣で愚昧なペテンで塗り固めた言論統制のもと、人びとをただひたすら被曝させつづけようとする国内外の支配層にとって、いま日本でほぼ唯一、疎ましい現象は、インターネットを通じてなされる情報発信・意見交換であるだろう。
 『秘密保全法』が直接の標的——「主敵」と想定しているものが、日本大衆のいかなる営為であるかは、現状、火を見るよりも明らかである。

 安倍晋三の無知・無能・無教養を論(あげつら)う声が少なくない。だが、そんなことはそもそも、かくも特権的な環境に生まれつつ(その必然的〝報い〟として?)こんな愚劣な生き方しかできずにきたという、この男の経歴を見ただけで明らかな話だ。
 麻生太郎を含め、彼らが現在の地位にいるのは「係累」という種の果ての問題にすぎない。また見方を変えれば、無知・無能・無教養こそ、〝操作される独裁者〟としての最適の資質なのだ。

 こうした事情は、たしかヒトラーに関して、羽仁五郎も指摘していたはず。
 それにしても「ナチスを見習ったらどうかね」発言でなお、 麻生太郎の政治生命を絶つこともできなかった段階で、たぶんこの国の「政治」は本質的に終焉していたのだろう。少なくとも、現在、地球上に存在する、他の諸国から見て。

 日本人として生きねばならぬ私たちは、そうした絶望的国家の「国民」であるということ——。
 屈辱である。

 かてて加えて、かかる決定的事態に際会したこの国の「臨時国会」冒頭において、今回、なされた『東京五輪成功決議』とは、何か? 

 このかん私自身、ツイッター等で再三、指摘しているとおり、そもそもこの「東京五輪」招致なる、あまりにも醜悪な茶番自体、あたかも東京電力・福島第1原発事故の終末的破局が存在しないかのごとく振る舞おうとする(どこまで行けるかは判らないが、ともかく行けるところまで行く——)、日本政府・東京電力・その他と、一方で国際原子力ロビー・金融資本とが結託した〝壮大な〟(?)恥知らずの国際輿(よ)論操作にすぎない。
 そして、日本国の命脈を断とうとする、その今国会の会期冒頭で、いきなりかくも醜く愚劣な「決議」が、衆議院満場一致・参議院は無所属のただ一人の反対を除く他の議員全員の賛成で可決されたという事実それ自体、『秘密保全法』をはじめとするファシストたちの策動が、考え得る最悪の予測をも超え、やすやすと実現するだろうことを明瞭に示している。

 いま、東京電力・福島第1原発事故による絶望的な被曝に喘ぐ状況下、満を持して日本に「招致」される〝オリンピック〟なる愚行に臆面もなく「賛成」することができる、国会議員たち——。

 人間として、恥ずかしくないか? 
 これは最低最悪の「踏み絵」だったのだ。

 「ふみ絵」は差し出された時、それと分かるものです。形はささいなものだが踏まない事が恐ろしいと感じる。それを一度でも踏んでしまえばさらに次の「ふみ絵」を踏まされる。そして人としての尊厳を奪われ「力」のいいなりになっていく。
         (田中哲朗/1989年・年賀状)

 田中哲朗氏に関しては、前出の小著『「新しい中世」がやってきた!』第10信「魂の連邦共和国へむけて」第10節「『ふみ絵』は差し出された時、それと分かるものです」、参照。


                         〔中篇に続く〕


 






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by uzumi-chan | 2013-10-20 04:22 | 反戦・平和

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