人類史に顔向けできない大罪 東京電力・福島第1原発事故(第193信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


人類史に顔向けできない大罪

——2012年衆院選・都知事選の絶望〔1〕





 思うところあって、ほぼ3箇月間、ツイッターでの発信を停止し、また種種の事情により、同様にブログの更新を凍結していた。
 だが、とりあえず今回に限って、言論の継続性の観点から、最小限の見解表明をしておくこととする。以下、事態の緊急性に鑑み、アップロードするテキストは、現時点においては未定稿であることをお断りする(ただし、現状のまま刊本とする段階ではないという意味で)。
 
  ブログの更新は、ツイッターでの発信以上に滞っている。両者の本格的再開に関しては、当面、本年最終週をめどに考えているが、確実ではない。


 2012年12月16日、「戦後日本」は最終的に滅んだ。

 いや。滅亡したのは、単に「戦後日本」というより、日本そのものであったのかもしれない。それにつけても、この破滅が、極東……さらにはアジア圏全域、最終的に北半球の広汎な地域へと拡大してゆかなければ幸いである。
 なぜなら——私たちのこの最低の国は、制御不能のまま放射性物質を撒(ま)き散らしつづけているそれらをも含めた、54基もの原子炉と、さらに終末的な破滅の淵源(えんげん)となり得る関連核燃料施設をも抱え持った、現状、史上最悪の核暴力国家と化しているのであり……しかも、おめでたくも凶暴なその国の「有権者」大衆の「マジョリティ」は、この絶望的な核汚染状況になんら対策を講じず、逆にますます核破滅を加速させる政党に、嬉嬉として自らの1票を投じたのだから。

 その意味で——敢えて言う——日本国「有権者」大衆の「マジョリティ」は、全人類史に顔向けできない大罪を犯したのだ。
 それが積極的犯意によるものであれ、度し難い無知の露呈であれ。
 自公325議席・〝第三極〟を標榜するファシスト政党54議席という結果は、いまこの国が全地球的規模で及ぼし得る惨害を思うとき、人類にとっての危機にも、ほかならない。**
 
 ** インターネットの一部で、高度に操作されたコンピュータ・システムを中心としたそれを含め、「不正投開票」疑惑が取り沙汰されていることは、私も承知している。そうした視点を手放さない警戒心は、むろん無意味ではない。だが今回の場合、それがこれだけ広範囲に行なわれたと考えることはリアリティを欠くし、何よりそうした見方は、この国の「有権者」大衆の質の度し難さに対して、まだまだあまりに牧歌的すぎる。これが日本大衆の現実なのだ、ということ。


 2012年12月16日、「戦後日本」は、最終的に滅んだ。
 むろん、それ以前の2011年3月中旬——あの絶望的な10日間に、この国ばかりではない、少なくとも東アジアの広汎な地域と、そこに生きざるを得ない人びと、生命とは、決定的な損傷を被ってはいる。株式会社東京電力とその系列勢力、日本政府、そして、マス・メディアとそれらへの寄生者たちとによって。

 だが、それでもなお、そこにはまだ、市民的理性の表現手段であるはずの選挙と、その結果、編成される議会、そしてそれを基に成り立つ政府によって、いささかでも危機の進行を食い止め、ないしは遅らせようとする、国民—大衆—民衆の意識が示されるかもしれないという、一縷(いちる)の望みはあった。
 たとえ、自分たち自身の滅びが避けがたいとしても***、そこに民としての良心と知性の存在証明を遺すこと。私たち日本人が、ともかくも人間だった証を刻みつけること。

 今回のあれら——衆議院選と東京都知事選とは、そうした選挙だったのだ。

 *** なぜなら、まず第一に、少なくとも東日本居住の人びとの放射線被曝は、程度の差こそあれ、決して軽視し得るものではないから。しかも現状に至る過程で、民主党政府により為されてきた人為的な二次被曝・三次被曝は、西日本にも及んでいるのだから。


 過去何年にもわたり、これらの選挙が終わったあと、決まって繰り返されてきたやりとりがある。
 曰く「国民はバカなのか?」「都民はバカなのか?」——。
 現に、海外在住のある年若い畏友から、私は〝もしも都知事選の結果が不正投開票によるものではないとしたら、都民はほんとうにバカということになる〟というメイルを受け取った。
 絶望を見据えねばならないとき、最も斥けるべきは「まさか、いくらなんでも~までのことはないだろう(はずだ)」という予定調和的な予断である。人性の救い難さに対する、「性善説」めいた高の括り方である。

 一定程度以上、聰明な人びとのしばしば陥りがちな過ちは、自らを基準に他者を類推しようとすることだ。人間の底知れぬ愚劣さを前にしたとき、自らを唯一の尺度としては、絶対にならない。
 石原慎太郎などという、その名を記すことにすら吐き気を覚える、人間たる活動の最初期から最も低劣な存在として、野卑な胴間声を上げながら「戦後日本」を腐蝕する以外、いかなる作用も為しえなかった男が、今日にいたってなお、好き放題に振る舞い、その一族郎党もまた「選良」の座を恣(ほしいまま)にする。しかもこれが中世封建制下の悪夢でない以上、それを支えているのは、自らを嘲られることに快感を見出す、お笑いバラエティ番組のスタジオ「参加」視聴者と同質の卑しい能動的マゾヒストたる「有権者」大衆にほかならない(小泉純一郎も同様である)。

 いかにも、「そこまで東京都民はバカなのか?」「日本人はバカなのか?」と問われれば、とりあえずは現に起こっている現実が、その答えのすべてだと応ずるしか、あるまい。
 だが、それらが決して一朝一夕に起こった現象ではなく、実は「戦後日本」の始まりから——もしくは擬似「近代日本」の最初からそうだったとしたら? 

 「国民はバカなのか?」「都民はバカなのか?」——この設問の立てられ方。また「バカ」なる術語が適切なものかどうかについては、いったん措(お)くとして****、今回の選挙結果が、従来のいかなる場合にもましてやりきれないのは、それが「原発」と「憲法改正」とに直接、関わる決定的な自殺行為、ないしは無理心中にほかならないからだ。

 ****なぜなら。いまここでは、 むしろさらに厳しい言葉こそが、「バカ」の代わりに用いられるべきであるかもしれないから——。


 東京電力・福島第1原発事故。TPP強行参加。福祉の破綻。一部ファシストらによって仕組まれた〝国境紛争〟。
 それらすべての「課題」に、実際、最低の底をすら割り込んだ対応しか為しえなかった民主党政権に代わるオルタナティブが、しかしながら自民党でしかないという貧しさと歴史観の欠如。
 これらは「バカ」かどうか以前に、むしろ 言葉の本質的な意味での「教養」の欠如という問題であろう。あまりにも「教養」がなさすぎるのだ。急いで断っておくと、教養といっても、職業知識人・大学教員のような〝専門〟的、プチブル的なそれではなく——現在を生きる人間としての、最低限、持ち合わせているべき。

 だからこそそれは、手に入れる機会を奪われた、といった歴史社会学的・階級的視点の問題ではなしに、直接には、自助努力の欠如の問題である。その自助努力の欠如それ自体、歴史社会学的・階級的視点の問題だ——という論点も、また存在しえようが。
 (だが、果たしてどうなのか? 吉本興業の「お笑い」やAKB48に浮かれている大衆以上に、当のお笑い芸人やアイドルたちはむろんしたたかであり、十分に聰明でありさえする。先般、とある愚にも付かない暴力映画の試写会に招かれながら、「あまりにも命が軽んじられすぎる」「私はこの映画は嫌い」と表明して途中退席し、その後も見解を変えることのない大島優子に匹敵する自己主張を、彼女に熱狂するファンたちのどれほどが、たとえば選挙の投票という匿名的行為においてすら為し得るかどうか?)

 卑しく愚かな民主党政権が「課題」とすることになった、それら大状況は誰によって設(しつら)えられてきたのか? 自民党だ。
 だったら、「公約」に対する最低限の日本語読解力、それに基づく論理的思考力を具備した者なら、採り得る選択肢はおのずから明らかなはずではないか? 未来の党でも社民党でも日本共産党(!)でも良い——それらの政党だ。
 にもかかわらず、それらが軒並み落ち込み、民主党政権に代わって選ばれるのが自公、もしくは〝第三極〟を標榜するファシスト政党であるという、この絶望的貧しさ。日本の息の根を止めようとしている政党が「日本を取り戻す」と平然とうそぶく、この醜悪な茶番。

 ちなみに、くだんの正真正銘のファシスト政党が堂堂と第二党を窺(うかが)う勢いにあるという、この事態において、最も絶望的なことは何か? 
 この事態が絶望的なのは、実は単にそれがファシスト政党であるからというだけではない。それ以上に、いやしくも公党として、原発問題に関し、いかなる見識も、それ以前に党としての統一見解すらない、ひたすら権力欲のみの集団であるという点だ。
 このかん、最高幹部2名のあいだで二転三転した「原発」政策(?)の空疎さをかくまで見せつけられながら、なおその政党と所属候補に票を投ずることのできる「有権者」大衆にとって、放射能とは、どうやらこの世に実在しない概念ということになるのだろう。

                          〔以下、続稿〕


【追 記】(2011年12月21日 09:50)
 当初、〔日録〕カテゴリの第18信とした本篇だが、考えてみると、やはり〔東京電力・福島第1原発事故〕カテゴリとすべきであるので、そちらの第193信へと、改めて組み込みなおした。
 小著『原子野のバッハ——被曝地・東京の三三〇日』(2012年3月/勉誠出版刊)を1つの区切りに……などとできるはずもなく、そもそも休眠状態にあった当ブログ再生のきっかけとなった〔東京電力・福島第1原発事故〕カテゴリは終わりようがないようだ。くだんの「事故」(と称される、超国家的犯罪)に、いかなる〝終熄〟も、ありはしないのと同様に。





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by uzumi-chan | 2012-12-18 08:04 | 東京電力・福島第1原発事故

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