子どもたちの命を削り、東京電力を免罪する情緒主義を棄てよう 東京電力・福島第1原発事故(第189信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


子どもたちの命を削り、東京電力を免罪するだけの情緒主義を棄てよう






 東京電力・福島第1原発の——とりわけ現状、4号機の運命は、まったく予断を許さない。
 だが、4号機が最終的に倒壊するか、しないかの如何(いかん)にかかわらず、もはや明らかなのは、福島現地の被曝状況がただならぬものであることだ。

 いかにも——4号機が倒壊すれば「日本は終わり」かもしれない。
 しかし、たとえ4号機が倒壊しなくとも、福島を中心に南東北から北関東にいたる地域の被曝は深刻だ(こう綴っている私のいる東京すら、3月以来、私が何度も何度も何度も言いつづけているとおり、今後の健康への影響をとうてい軽視し得ない、まぎれもない「被曝地」である)。

 わけても、福島現地の若年の人びとにおける放射線の影響への懸念が、当然のこととして強まっている。
 私が納得し難いのは、それでもなお一部に、「故郷に留まること」「家族がともにいること」という〝価値観〟が最優先のそれとして、人が振る舞うのが許容されている事実であり(——しかも、時として無責任にも第三者までもが、そう、無造作に主張し)……そして結果的に細胞分裂の盛んな年代の人びとの無防備な被曝が、まったく放置されている事実だ。

 むろん、他の年代の人びとにおいても、本来、被曝が許容されて良いはずはない。
 そしてまた、当面、このまま事態が推移するとしてすら(すなわち、4号機の倒壊がなんとか回避されつづけるとしてすら)、チェルノブイリ原子力発電所事故後の、現在にまでいたる経緯に照らして考えても、もはや福島県とその周縁地域は、他の都道府県と同次元の地と考えることは非現実的なのであり、そこでの居住も、そこへの帰還も、論議以前の問題であるのではないかと思われる。

 にもかかわらず、そうした論議になんらかの存立根拠があるかのごとく——すなわち、子どもたちの被曝が取るに足らず、居住や期間への「可能性」が残されているかのごとく——振る舞う、マス・メディアをはじめとする欺瞞は、それだけ、東京電力の罪科を軽減し、政府の責任を曖昧にする工作に、好むと好まざるとに拘わらず加担する行為でしかない。

 原発が建設されたというあまりにも不幸な当初の誤りに加えて、さらにかくまで悲惨な事態に立ち至った後も、なお、結果的に東京電力や日本政府を利する行為は避けられるべきだ。

 ちなみに、「原発を招致した」という。
 しかしながら、それは、すでに出来上がっていて、この世のどこか別の場所に存在した原発を「引き受けた」のではない。実際には、原発の「招致」が承認されてから初めて、「それまではこの世に存在していなかった当該の原発が1基、ないしは1箇所、この世に新たに造られた」のである。

 〝電力を消費する側ではない地〟に原発が「押し付けられた」とする、あまりにも意図的・煽情的な俗論の抱え持つ重層的かつ卑劣な欺瞞は、これまでも何度も指摘してきたので、ここではとりあえず措(お)く。
 (そもそも原発など、最初から現在まで、まったく必要なかったのだから。原発などという、大小無数の「利権」の口実とされる以外、なんの意味もない危険な核施設を必要とすることなく、この国の電力は足りていたのだから——)

 このとき、「過疎」や「貧しさ」、「仕事のなさ」が原発「招致」のやむを得ざる動機として説明されるならば……それは、そもそもいっさいが「原発の悪」を承認した上での判断であったことが告白されているに等しい。
 明らかに、「過疎」や「貧しさ」、「仕事のなさ」は、少なくとも原発以外の他の方法によって解消されるべきだったのであり、また実際にそうしようと努力した人びとが、まぎれもなく原発現地にも、当然「東京」にも存在した。
 にもかかわらず、「原発」を押し止めようとした彼らは敗れ、原発が建ったのだ。

 「ふるさとに帰りたい」と、避難を余儀なくされた人びとが訴える。
 いかにも——それほどまでに大切な「ふるさと」なら、そもそも原発など、最初から建設されてはならなかった。

 そしてその原発が——いまや、日本を滅ぼすどころか、東アジア、さらには北半球全域に深刻な放射能汚染を及ぼしかねない事態となっている。

 言うまでもなく、すべての人間は、個個に独立した人格として、その生命と自由を尊重されねばならない。
 子どもが、誰かの「子」であるという現実の条件によって、その生命が脅かされ、自由が制限されるがごとき事態が容認されていてはならない。

 忌憚なく言うなら——あまりにもやりきれない現状は、沖縄戦において日本帝国主義が民衆に強いた、悲惨な「集団自決」をも連想させる。
 しかも、それが生死に関わる問題であるという事実が、個個の当事者のいずれにも明確に認識されないまま、危険は深まっている……。


 私は、かつて魯迅がそのデヴュー作『狂人日記』(1918年)の末尾に刻印した、あの言葉を想起する。
 《救救孩子……》(子どもを救え……)
 そうだ。たしかに、子どもを救え。

 そして、私は、そこにこう加筆したい。
 《救救大人也……》(大人も救え)——私たち自身も救え。

 子どもたちの命を削り、東京電力を免罪するだけの情緒主義を棄てよう
 まず、子どもたちを——そして大人たちも、自分自身を——解放しよう。






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by uzumi-chan | 2012-01-11 14:48 | 東京電力・福島第1原発事故

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