私たちが喪ったのは、どんな「世界」だったのか?〔前篇〕 東京電力・福島第1原発事故(第183信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために――


私たちが喪(うしな)ったのは、
どんな「世界」だったのか? 
 ――X’masイルミネーションの田舎町で 〔前篇〕






 世界のすべてを書くことなど、到底できないだろう。つねにその1局面、縁の端から瞥見(べっけん)した、ほんの一瞬の姿を焼き付け、刻印することにのみ、それははかろうどて留まるだろう。

 それにしても、こんな小さなことから書くしかないのか? 
 そうなのだ。こんな小さなことから書くしかないのだ。
世界とは、つねに極限的な細部の集積から成り立っているのだから。



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 ……いま、私がこれを書き綴っているのは東京ではない。事情があって、時折り来訪する中央高地――長野県北部の田舎町である。
 (だが、本稿をアップロードするのは、帰京してからのこととなることだろう)

 私が生まれ育ったここは、典型的な田舎町である。
 これ以上、ないほどに典型的な——。

 20代半ばのころ、無慮100篇以上準備した中短篇・掌篇小説の構想ノート(その大半は、いまだ作品として形を成す途上の段階にあるが)のなかに、この土地を舞台とも、むしろ“主人公”ともした『田舎町』という題名の短篇小説の構想メモがある位だ。

 むろん、都会でもなければ……かといって、自然豊かな農村でもない。
 以前——この国の擬似「近代」のかなり長い期間、郡役所・地方事務所が置かれていたことにも見られるとおり、周辺の農村に較べ、中途半端に「町」で、商店主や勤め人も多く、そしてむろん徹底的に保守的な風土。

 つねに相互監視的で、他者と異なることを蛇蝎(だかつ)のごとく忌み、誰かに似ようとし、つまりは世間体を気にし、陰口を叩き合い、人の足を引っ張り合う——。


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 私の幼少期は、自分自身が周囲から受けた直截の経験から「世界は根本的に間違っており、人生は苦痛と悲しみに満ち、神などむろん存在するはずもなく、人間は悪に支配されている」という見解を大原則として生き抜いてきたものだったのだが——その少なからぬ部分は、この田舎町に生き合わせた、それも同年代を中心とする他者との関係のなかで形成されてきたように思う。

 したがって、この町が私は好きではなかった。
 いつか、そこから離れることばかりを夢見てきた。
 いまとなっては、いささかならず気恥ずかしい話だが、A・ランボオの生まれ育った北東フランス、シャルルヴィル Charleville とは、おそらくはこんな田舎町ではなかったかと——人生でも最悪の時期の1つだった中学生時代、私はしばしば想像してみたものだ。
 (……ベルギー国境に近いくだんの小都市へは 結局、 ヴァン・ゴッホのアルルやオベール・スュル・ォワーズと同様——現時点まで、まだ実際に旅する機会を得てはいないが)

 十代の終わりにこの町を離れてから現在にいたるまで、とりあえず東京に生活の拠点は持ってきたものの、年に何度かは「帰郷」していたし、私の健康状態がとりわけ芳しくなかった二十代後半には、断続的に数箇月をこの「郷里」で過ごしたような年もある。

 それが、30歳あたりを過ぎて以降……ほぼ完全に東京での生活中心となり、3年、4年とまったく戻らないまま、むしろ国外へと赴くことが増えてきたような時期が続いたにもかかわらず——およそ5年ほど前から、ほぼ毎月、もしくは隔月で、かの地との往復を繰り返すようになった理由の巨きな1つは、ともにそれ以前から身体機能にいささかの支障があった老親二人が、数度、その頃から相次いで小さからぬ手術を受けたりしたことがあった。
 またそれ以上に、アメリカ“ネオコン”に国を差し出して迎合する一方、「地方」の「弱者」を徹底的に切り棄てた小泉純一郎政権による「棄民政策」の結果、彼ら二人だけでは日日の生活も容易ならざるものとなったためだ。

 今年で齢87になった父親と、80歳の母親は、生涯、この町で暮らしてきた。
 そして、いまもその片隅で、不自由な軀を労りながら、ひっそりと慎ましい生活を営んでいる。

 現状、旧来の生活圏の商店街が荒廃を極め、郊外の大規模小売店にのみ物流が偏倚(へんい)した日本の「地方」で、車を持たず(運転免許もなく)、むろんコンピュータもファクシミリもない「情報弱者」の高齢者が生活してゆくことは至難となっている。
 父親に言わせれば「俺たちには死ね、と言っているのと同じ」ということだ。

  携帯電話は、ようやく最近、簡単なものを持たせるようにしたが、それでも必ずしも使いこなせてはいない。


 こうした事情については、他の場でも、また当ブログでも数度、言及したし、まだ当分のあいだは明らかにすることのできない別の事情もあるのだが……ともあれそんな次第で、2006年から、町の中心部に建つ、ほぼ、ただ1軒の小さなビジネス・ホテルを定宿とし、平均して月に数日、老親たちの生活状態の確認や遠方への買い物、また短期の入院の際などはその送迎に赴いている。


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 ホテルは全国展開するチェーンのごく一般的なビジネス・ホテルだが(創業者は長野県の出身で、同県から事業が始まったらしい)、老親たちの暮らす家に至近なのと、インターネット回線が使えること、比較的安価な上、アメニティを中心にこまごまとした気配りが良いこと——そして何より、すでに気心の知れたスタッフの誠実な対応が心地よい。

 これまで、私もそこそこ、内外のクラシック=ヴィンテージ・ホテルを泊まり歩いた経験がないわけではなく、なんの間違いか、1冊、“ホテル紀行”の著書**まで持っている人間であるが、結局、これまでの人生で最も世話になっているホテルは、この「郷里」の町の小さなビジネス・ホテルにほかならない。

 ** 山口泉『ホテル物語——12のホテルと1人の旅人』(1993年/NTT出版刊)。口絵・本文写真と、水彩によるカバー装画も、私の作品である。


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 一応は、まがりなりにも「実家」があるはずの町で、そこに棲む老親のもとに世話をしに行きながら、なぜ、『ホテル物語』か? 
 当の「実家」に泊まることの困難な事情があることは、私と同様の環境に身を置く方には類推されよう。

 私は、かつて強く印象に残った「老親を労(いたわ)るとは、寄る辺なき孤老を労ることだ」というリルケの言葉を思い出す——。


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                                    〔この項、続く〕






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by uzumi-chan | 2011-12-28 05:30 | 絵本『さだ子と千羽づる』

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