8800kmを隔てた、絵画の散開星団——在独韓国人美術家・鄭榮昌さんのこと〔後 篇〕 美術全般(第3信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために――


8800kmを隔てた、絵画の散開星団——在独韓国人美術家・鄭榮昌(チォン・ヨンチャン)さんのこと〔後 篇〕






 今般、ようやくのこと脱稿し、『週刊金曜日』12月9日号(875号)に発表できた小文「フクシマを避け得なかった国から、自己流謫(るたく)の友へ――在独韓国人美術家・鄭榮昌の生と作品に寄せて」は、本来、今年の早春には完成の予定だった作品である。
 にもかかわらず、当初の予定がここまで遅れてしまったのには、言うまでもなく、直截(ちょくせつ)には、3月11日以降の東京電力・福島第1原発事故が影響している。

  念のため、付言しておくなら——この事態に対して「反応」「呼応」した既存の文筆家の少なからぬ部分(大半、とまでは言わない)の意識や、その姿勢について、私はそこに、いっこうに自らの帰属する「原発」的・東京電力的な秩序に対して、意識するとしないとにかかわらず再肯定する以外の何物でもない、やりきれぬ浅さや卑しさを感ずる。
 むしろ、何も語らぬ方がまだましなのではないかとすら思わざるを得ないほどに。
 しかしながら、だからといって、何も語らぬことが表現者の誠実であるなどというはずはない。
 問題は、おそらく極めて簡単だ。表現者として真に内実を伴った表明・表出をしつつ、そうではない偽りの表現者たちについては、同時に適切な批判を加えてゆく——という、それだけのことであるはずなのだから。



 だが、それにのみとどまらない……いくつかの個人的事情も輻輳(ふくそう)して、本来、本質的な意味で心躍るエッセイの制作作業であたはずにもかかわらず、一時は発表を危ぶまざるを得ない局面すら、私の内部には訪れそうになったこともあった。

 ——その意味では、そんな私の遅滞に粘り強く対応してもらった『週刊金曜日』にも感謝している。
 現状の日本の、度し難い制度圏メディアの頽廃と衰弱の底においては、同誌は『東京新聞』以上に、相対的に良質な、むしろ貴重なメディアとして存在していると考える**が、個個の人間関係という意味では、2004年末に同誌との接点が生じて以来、私を担当してくれているKさんは、これまで私が出会ってきたあらゆるそうした立場の人びとのなかでも、最も真摯で、かつ鋭敏な編集者の1人である(——総じて、私自身が直接、接点を持つ同誌のスタッフについては、私は同様の思いを持っているが)。

 とりわけ、それが片片(へんぺん)たる小文の場合でさえ、送稿後、彼女がすぐに必ず伝えてきてくれる、的確極まりない感想は、書き手として巨きな励ましとなってきた。
 この国の「紙メディア」に、こうした編集者が長く存在しつづけてくれることを、私は願っている。

 ** なお、奇しくも、その『週刊金曜日』12月9日号(875号)には、当ブログ〔絵本『さだ子と千羽づる』〕カテゴリでも幾度となく紹介してきた、SHANTI(絵本を通して平和を考える会)代表・湯浅佳子(ゆあさ・けいこ)さんのインタヴューも載っている(「広島で被爆した禎子さんの絵本を/放射能に曝される子どもたちと読む」同誌55ページ「『金曜日』で逢いましょう」欄)。


 むろん、鄭榮昌さん自身にも、今回のエッセイの件は昨年のデュッセルドルフ滞在中から伝え、帰国後も何度か、問い合わせへの回答をもらったりもしていた。
 このかん、彼とのあいだで双方100通以上に及ぶ電子メイルのやりとりの少なからぬ部分をもそれらは占めるが、そればかりではなく、折りに触れ、鄭榮昌さんが画像ファイルとして添付してくれる新作に接するのも、つねに鮮烈な悦びを覚える経験だった。


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 鄭榮昌『후쿠시마(フクシマ)』(カンヴァスにアクリル/40cm×40cm)。〔写真提供・鄭榮昌氏〕


 10月12日付のメイルで初めて届いた『フクシマ』——。
 東京電力・福島第1原発事故を「絵画」で表現するという企ての、これは1つの極限であろう。

 「白磁の飯碗」というオブジェが、韓国民衆美術において占めてきた象徴的な意味——さらに言うなら、鄭榮昌さんや洪成潭(ホン・ソンダム)さんが兄事する詩人・キムジハ 김지하 (1941年—)の絶唱『밥(パブ=ご飯)』等にも通底する、「傷つけられた宇宙」のへの告発のメッセージが簡潔に突き付けられた作品である。

 また、今回のエッセイを取り急ぎ、PDFで送った返信に添付された幼女像は、今秋、久びさの帰国の際、赴いた済州島(チェヂュド)——海軍基地反対闘争の続く江亭(カンヂォン)の村で出会った子どもの肖像だという。
 1点を凝視する幼女の、静かな憤怒を湛えた険しい表情が素晴らしい。


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 鄭榮昌『幼女』(カンヴァスにアクリル)。〔写真提供・鄭榮昌氏〕


 私は、鄭榮昌さんが送ってくれたそれら2点の最新作のファイルを、自らのiMac の液晶大画面に開き、見つめながら——かつて魯迅が『狂人日記』(1918年)の末尾に刻印した、あの言葉を想起する。


 《救救孩子……》(子どもを救え……)
 

 光州やロンドンと同様、デュッセルドルフもまた、いまや、私にとっては、自らの魂の一部を置いてきた土地であるかのようだ。

 次にいつ、鄭榮昌さんのアトリエを訪ねることができるか。
 ともあれ現在、私は人間としてもキュレーターとしても高く評価している、優れた学藝員たちの尽力を得て、数年以内に鄭榮昌さんの個展を日本で開催すべく、検討を重ねているところである。

 詳細はいずれ、このブログでも発表できるだろう。

 また、前項《5年ぶりの再会、1年を経て実現した懸案》でも予告した、私の「光州民衆美術論」についても——かかる暗澹たる日本の文化状況ではあるが、出版を引き受けてくれそうな可能性のある書肆(しょし)も、ないではない。

 もしもその刊行が実現するなら、あの友人たちの心血を注いだ作品図版の溢れる1書の、なんと魅力的なものとなることか。
 そしてその書名には、いずれも私が彼らに関して著(あらわ)した最初期の文章の2篇のタイトル——『光源と辺境』(***)もしくは『「美」と「命」の距離について』****が選ばれることとなるだろう。

 *** 《光州事件から25年——光州の記憶から東アジアの平和へ》京都展図録・巻頭エッセイ。なおこの小文は、私を光州民衆美術と引き合わせてくださった立命館大学教授(当時)徐勝 서승(ソ・スン)さんの韓国語訳により、韓国の美術雑誌《월간미술》(ウォルガンミスル =月刊美術》2006年6月号にも転載された。
 日本と同様、ポスト・モダニズムの「アート」に席捲された韓国現代美術シーンにおいて、少なからぬ反響を喚んだと聞く。

 **** 「『美』と『命』の距離について——《光州の記憶から東アジアの平和へ》展と日本人」(「週刊金曜日」2005年12月9日号(第585号)。



 光州——北緯35度・東経126度。
 デュッセルドルフ—— 北緯51度・東経06度。

 およそ8800kmを隔てた2つの都市には、私にとって、同世代の友としての「実在」を伴った、絵画の散開星団が展開する。






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by uzumi-chan | 2011-12-11 15:34 | 美術全般

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