山口泉「『死の功利性』にまどろまぬために」全文〔1/5〕 ——追悼・李小仙オモニム 韓 国(第7信)


なぜ私は、あの国と、そこに連なる人びとについて、
倦むことなく書きつづけるのか? 
むろん、彼らが素晴らしいから。
しかし、それだけではない。
——私が書いているのは、彼地と彼らのことだけではなく、
実は、「この国」のことなのだ。
いまだ、真の「連帯」と「友愛」というものの根づいたことのない、
この日本という荒寥たる国の……


山口泉「『死の功利性』にまどろまぬために」全文〔1/5〕 ——追悼・李小仙(イ・ソスン)オモニ





 映画『美しい青年 全泰壹(チォンテイル)』(1995年・朴光洙=パク・グァンス=監督)は、いかにも「全泰壹を映画にすること」の不可能性に充ち満ちた作品である。

 説明するまでもないが、全泰壹とは、1948年、大邱(テグ)に生まれ、幼いころから底辺労働を転転としたのち、70年11月13日、貧しく年若い被服工が数多く苛酷な労働を強いられていたソウル市内・平和市場(ピョンファシヂャン)で「労働条件の改善」を叫びながら抗議の焼身自殺を決行した人物である。


 友よ。ぼくを知るすべての人々よ。
 お願いがあるんだ。ぼくを、いまこの瞬間のぼくを、永遠に記憶しておいてほしいのだ。
 すれば、雷鳴と稲光が天地を突き崩そうと、天の底がぬけ落ちようと、ぼくは恐れたりしない。この瞬間、何を恐れなければならないというのか。
 むしろ、平穏であるべきなのだ。少しでも恐れる気持があれば、ぼくはぼく自身を見棄てたい。完全な形の安全を要求する。
 瞬間、この瞬間のみが重要なのだ。
 この瞬間がすぎれば、その後には虚偽は存在することはないのだ。あとさきの心配は要らない。
 話をはじめるとするか。それから、ぼくの席をいつも用意しておいてくれ。お願いだ。
 テーブルの中央なら、なおよい。
 では、これで訣別を告げるとしよう。さようなら。

 (全泰壹「手記」/韓国民主回復統一促進国民会議日本本部宣伝局編『韓国労働者の叫び——全泰壱=ママ=氏の生涯とオモニたちの闘いの記録』民族時報社・1977年刊から)


 私が全泰壹の存在を知って以来、かなりの年月が経つ。
 根底に深い敬意を持ち続けながらも、全泰壹に関する私の評価は簡単ではない。また、そのあいだに微妙な変化をきたしてもいる。

 ただ、何よりの課題は、生きている私たち自身が、この「韓国のイエス」から何を学ぶかだろう。
 ともあれ、この映画が完成したという情報に接したとき、最初に抱いたのは「全泰壹を、果たして『映画』にすることが可能なのか?」という疑問だった。

 なお、今回、私の観たヴァージョンには字幕が付されていなかった(著作権の関係だと聞く)。
 したがって、私の朝鮮語力では台詞の細部までを十全に把握できたとは到底、言い難いものの、「映画」という表現形式に固有の率直な即物性(それを強みと取るか、もしくは弱みと取るかは、ひとまず措くとして——)のせいで、作品のあらましはなんとか理解できたつもりである。


 まず『美しい青年——』においては、「全泰壹」という「事実」をそのまま造形し提示することに対する怯懦(きょうだ)が選ばせたと考えられる、現在と過去とをカラーとモノクロームとで描き分けた「額縁形式」が、結果的には、ただ「全泰壹」伝を作った場合よりいっそう、表現としての脆弱(ぜいじゃく)さを露わにすることになってしまった。

 やはり95年に制作されているケン・ローチ監督『大地と自由』などと同様の手法だが、方法上の問題点としては、『美しい青年——』の方が、より深刻である。
 ここでは、あらずもがなの“フィクション”が、より決定的に「歴史」を無力にしてしまっているからだ。

 よしんば、どんなぶざまな失敗に終わろうとも、全泰壹を描こうというのなら、小手先の小細工を弄さず、正面からまっすぐに向かい合って描くべきだった。

 物語の「外枠」となっている、大学法学部を卒業しながら学生運動に挫折(?)し、全泰壹の評伝を書くという作業に現在の自らの拠り処を見出そうとしているらしい青年キム・ヨンスと、妊娠中の恋人で紡績女工のシン・チョンスンのロマンスは、私には「作品」にとっても「歴史」にとっても、真の必然性を帯びたものとは到底、思われない。
 “指導者意識に染まり上がったインテリ男性”と“低学歴だが健気な女性”という図式は、韓国映画に瀰漫(びまん)する“「オッパ(女性から見ての「兄さん」)」コンプレックス”に貫かれた、その「性差別」性が、終始、気にかかった。

 そして、こうしたヒーローとヒロインの関係の不平等性の“解決”と目されるものが、チョンスンが権力の拷問に耐え抜きながら、身ごもっていた児を無事、出産することで、危殆(きたい)に瀕(ひん)していたヨンスの観念的な政治性が新たな生命観の光のもとに蘇生する……というのであっては、これは実はキムジハ的な母性主義と、それをも飼いならそうとする男権主義が撚(よ)り合わさり、いっそう重層化した「性差別」の高らかな再確認宣言にほかならないではないか。
 
 この手の主題を軽率に扱った場合の最悪のパターンに嵌(は)まり込んでいるとしか、言いようがない。


 ……だったら、この作品は歴然たる、救いようのない失敗作か? 

 ところが、事柄はそう簡単でもないのだ。

                                    〔この項、続く〕







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by uzumi-chan | 2011-09-21 22:05 | 韓 国

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