絶望的現実への反応の多様性について 東京電力・福島第1原発事故(第133信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために――


絶望的現実への反応の多様性について





 少なくとも、この世のいかなる人間の「心の働き」についても、必要な場合、一定の推測的仮説を持とうとする私の判断においては、今回の鉢呂吉雄・前経済産業大臣が、問題の「放射能」云云発言(——としか、現状では言いようがない)に到った心的メカニズムとは、おおよそ、以下のようなものだ。

 鉢呂氏は、むろんこうした甚大な放射線汚染状況を良しとしているわけではなかった。だが、経済産業大臣という「原発担当閣僚」として、むしろ事態のあまりの深刻さに直面した上での、自らの側の無力さに対する、いわば極限的な自嘲ないしは絶望の表現として、この「放射能」発言を為した。
 それは、究極のシニシズム、ないしは自暴自棄の投影であったかもしれない。けれど少なくとも「そこまで自らを壊さざるを得なかった」という点では、株式会社東京電力幹部はもとより、最高責任を負った為政者の立場にありながら、偽りの希望を売りさばきつづけた上、実際に数千万の人びとに降り注ぐ放射性物質に関する情報を終始、隠蔽ないしは過小に報告しつづけた菅直人や枝野幸男と較べ、ある意味、「正直」であったと言えなくもない。

 むろんそれが最上のものと言えるはずはない。
 しかしながら、一種の壮大な自嘲として、こうした言辞が出ることは想像できなくはない。絶望的現実への人間の精神の1つの反応作用の顕(あらわ)れとして——。
 (繰り返すが、だからといって鉢呂氏の「放射能」発言が適切だったと、私は言っているわけではない)

 いずれにせよ、前述の石原慎太郎・東京都知事の「自信・津波は奢れる日本人への天罰」発言や、菅直人政権の官房長官から鉢呂氏の後任者へと厚顔無恥な転身を遂げた枝野幸男に較べたとき、鉢呂氏の没倫理性がどの程度に重いものと見做(みな)されるべきなのか。
 鉢呂氏が為した悪は、“「被災地」の人びとの神経を逆撫でし、こころを傷つけた”とされた果てに自らの進退を谷(きわ)まらせしめる「放射能」発言だっだ。
 これに対し、枝野幸男の場合は3月11日以来の半年間、取り返しのつかない被曝を東日本一円になさせておきながら、菅直人ともにスピーディ SPEEDI (=System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information = 緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のそれらをはじめとするデータを隠匿し、それを無視し、放置し続け、福島の義務教育年限の子どもたちに年間20mSvまでの被曝を「許容」しようとしたのをはじめ、数限りない「棄民」政策を実際に重ねてきた「既遂犯」にほかならないのだ。

 どちらの犯罪性が、より高いか。責任が重いか。

 にもかかわらず、さまざまな意味で「叩きやすい」鉢呂・前経済産業大臣に情緒的な攻撃が集中し、その結果として、自民党関係者や原発誘致地元政治家の悪政・暴言、加害企業・株式会社東京電力をはじめとする電力各社の、高額の賞与支給や電気料金再値上げ、「やらせ」工作を含んだ原発再稼働その他もろもろの悪行から国民大衆の目を逸(そ)らさせる輿論操作が、またしても易やすと奏功してゆくさまには、いまさら驚きはしないにせよ、やはり胸の悪くなるものを覚える。

 今回の鉢呂氏の「放射能」発言に関連して、私には、本質的には同根のケースとして思い出される事例がある。
 8月初旬の、東海テレビの番組スタッフによる「怪しいお米セシウムさん」テロップ事件だ。

 鉢呂氏と、問題の東海テレビ関係者が同質だというのではない(それでは、鉢呂氏が可哀想というものだろう)。
 そうではなくて、「事件」に対する反響の、奇妙な偏倚(へんい)のしかたが同質だということである。
 
 言うまでもなく、こちらの問題は、鉢呂氏の「放射能」発言(そうしたものが、実際にあったとして)とも比較にならない、より悪質な、弁護の余地のない代物だ。
 論外といえば論外である。現状の日本の「テレビ業界」のある貧しさを集約的に現わしているとも言えよう。

 だが、これについてすら私は、こうした“不祥事”が起きる根本に横たわる状況の方が、実はより深刻なのではないかと考える。
 なぜ、このような絶望的な「悪ふざけ」が行なわれるか? 

 当時、頻出した論議は、もっぱら、それら卑しい精神を責め立てることにのみ終始し、問題の真の根源を、なんら剔抉(てっけつ)し得なかった。
 ——そもそも政府の濫発する「安全宣言」だの、垂れ流す「暫定基準値」だの、地元自治体首長の口走る「風評被害」だの「子どもたちに給食で食べさせて安全性をアピールする」だのといった、東京電力・福島第1原発事故という、取り返しのつかない大破局——とめどない超チェルノブイリ級の放射能汚染にほかならない人類への犯罪を矮小化し、糊塗し、隠蔽しようとする、すべての欺瞞に満ちた全社会的偽装の歪みが、こうした精神の箍(たが)の外れた行為を誘発していることを、なぜ人はもっと、きちんと指摘しないのか? 

 もはや、この国においては、何一つ「信ずる」に足るものなどない。
 政府も、それと結託したマス・メディアも。東海テレビ事件の場合は、当該の人物たち自身もまた、その一員だった——。

 そうした状況下、すでに「絶望」を通り越した終末的な自己崩壊の結果、自虐・他虐の別のない末期的な精神状態に陥っており、そこで自嘲・他嘲を全面展開している、という大前提に立てば、現在の社会の極限的な劣化も、説明がつくのではないか。
 絶望的現実への人の反応は、必ずしも一様ではない。

 そして、それらすべての根源には、何より政府——菅直人・枝野幸男政権と、加害企業・株式会社東京電力とによる欺瞞を極めたこのかんの情報操作、事実隠蔽があるのだ。
 だとすれば、問題のすべては最終的に、そこに速やかに帰結しなければならないだろう。

 真の加害者、責任者への糾弾が、なぜ、かくも等閑に付され、棚上げされ、相対的な軽率さ、不始末の追及に、あたら貴重な——いまや、ほんとうに貴重な——時間やエネルギー、体力が空費されているのか? 

 東京電力・福島第1原発周辺を、容易に帰還し得るはずもない「死の町」とした者たち。放射性物質を東日本全体に撒(ま)き散らした者たち。かけがえのない主食とそれを生み出す圃場に絶望的な汚染をもたらした者たち。
 そして、しかもそれらすべての深刻な実情を、いまこの瞬間にも覆い隠し続けようとしている者たちへの告発・追及・糾弾は、なぜ阻まれ続けているのか。こうした擬似輿論を、誰が操作しているのか? 

 つい数日前の TBS『ニュース23X』では、現在の日本の精神の末期的状況を象徴する1企画を見せつけられた。

 当ブログでも繰り返し批判してきた、今日の絶望的破局に重大な責任を負うべき一人——60億円の交付金と引き換えに、東京電力・福島第1原発3号機の「プルサーマル計画」を肯(うけが)った福島県知事・佐藤雄平がインタヴューを受け、「鉢呂発言」に対して“沈痛極まりない”といった表情を湛(たた)えて、しかつめらしく悲憤慷慨して見せる……。
 あまりの本末顛倒の欺瞞に、目の眩(くら)むような憤りと絶望とを覚えた。

 それに輪をかけた“公共放送”NHK『ニュースウオッチ9』の、悪夢のごとき非道ぶりについては、次項に記す。

                           〔この項、さらに微妙に次項に続く〕






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by uzumi-chan | 2011-09-17 02:10 | 東京電力・福島第1原発事故

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