生の時間を削りつづけた果てに逢着する覚悟のごときものへ 日 録(第4信)


帯電した、巨きな雲がうごくように……

生の時間を削りつづけた果てに逢着(ほうちゃく)する覚悟のごときものへ




 それにだけは手を染めるまいと念じ続けてきた私が、にもかかわらず、人に勧められ、ついうっかり作ってしまったまま休眠させていた、このブログなるものを、心ならずも再開した、その当初……すなわち東京電力・福島第1原発事故の炉心溶融前後、数千万人が為す術もなく深甚な放射線被曝に遭(あ)っているさなか——。

 まさに進行中の危機的事態から人心を逸らすという、ただその1点のためだけに、不当にも加害企業・東京電力により、一方的に断行された首都圏地域の「計画停電」と並行して、こちらは官房長官・枝野幸男の猪八戒顔や、当ブログでも何人か、その名は書きつけてきた御用学者・御用記者ども映し出される合間に——というより、むしろ放映時間量としてはそれよりも長く…… 全国的に展開されたAC(旧「公共広告機構」)による輿論操作策動広告において、反復され——今般の相田みつをのそれと同様、やはりその「詩集」の商業的需要が飛躍的に増したという金子みすゞの、およそ加害と被害の政治的・歴史的構造性のいっさいが捨象された、「赦(ゆる)し合い」の予定調和の欺瞞性に満ちた俗流叙情が選ばれたことは、偶然でもなんでもない。

 まさしく、あの渦中において株式会社東京電力が、その有力な会員社であったAC(旧「公共広告機構」)を通じ、あれら洪水のごとき判断停止・俗流道徳広告で日本大衆の不安と恐怖に麻酔をかけようとしていた、その中心部分において連用されるに最適の言説として、まぎれもなく金子みすゞの詩はあった。

  相田みつをのごとき「詩まがい」では、ない。とりあえず技術的には、たしかに金子みすゞの作品は「詩」ではある。
 しかも限りなく欺瞞的であるという、その特質において、明瞭に宮澤賢治のそれらに連なる——。



 ——この問題についても、かねて予告し続けているとおり、当ブログでいずれ、1項を設けて論ずる必要があるようなのだが……。
 現代日本の思想の荒野にあって、いささかはまともだと思っていたような「言論人」すら、この程度の、金子みすゞ程度の紛い物にあっけなく騙される、この惨状を目の当たりにすると、この国の知性の根本的衰弱は、その放射線汚染状況より早く、すでに度し難い段階に達していたのだと思わざるを得ない。
 (私は、他のいかなる国にも見られない、日本人の脱政治性・受動性・批判精神の欠如は、実はこうした「最低限の文学的教養」の欠如に由来しているのではないかとも、かねて疑っている)

 付け加えるなら、今般、(おそらく初めてその名を知って)金子みすゞを賞揚する人びとは、同時に——絶対に——その詩の用いられたACのコマーシャルが、あのぎりぎりの危機的な状況、最悪の危機がもしかしたら回避し得たかもしれなかったあの局面でテレビを埋め尽くしていたことの犯罪性については、ただの一瞬たりとも、決して考えようとしない。
 (当然といえば、当然であろうが——)

 その種の人びとには、「自己」というものがあるのか? 
 人が、かくも批判精神を抛棄しながら、ともかくも社会に存在していられるらしいことが、むしろ私には不気味である。


 ほかにも——そう、ほかにも草稿と問題は山積している。

 何度も何度も「予告」のみ繰り返している、80年代「反原発運動」と、それに対して、当時、私が展開していた仮借ない批判の双方についての、私自身による歴史的検証。
 これに、武谷三男・竹内均・星野芳郎・高木仁三郎ら、戦後日本の科学思想史的アプローチ(晩年の唐木順三をも、ここに含んでも良いかもしれない)がどう関与してくるかについての考察。関連して、「日本ファシズム」をめぐっての、若干の論攷。

 5月頃からの〔日録〕的な領域のそれら。
 とくにこの夏は、一気にそれらが滞った。
 東京電力・福島第1原発事故をめぐるさまざまな事態に関し、ともかく“準リアルタイム的に”対処しようと始めたはずの『東京被曝日記』のためのメモすら、すでに堆(うずたか)く溜まってしまっているではないか。

 ブログなる場で取り上げるには、いったん時宜を逸しているかに思われなくもない相当数の状況論メモの類はどうするか。
 端的な例を挙げるなら、人間として当然の声を上げた俳優・山本太郎氏のその後や、「復興担当相」松本龍の企てた言論統制の責任の問題は、このまま時間とともに見過ごされて良いものではない。
 しかも、それらは直接的に、現在の度し難い日本マス・メディア自身の責任にも関わるものだ。

 そしてまた、九州電力や北海道電力の偽装工作はどうか。
 関連して、北海道知事・高橋はるみ、佐賀県知事・古川康の言説も、福島県知事・佐藤雄平のそれと同様、この東京電力・福島第1原発事故下の日本の状況における自治体首長のそれとして、極めて重大である。

 関連して、幾つか、単発の大衆文化論や表現論もあるが……。
 何より直近のそれらとして深刻なのは——もう、先月となってしまった——広島の記録ではないか。
 (だが、こちらは、まだ広島に到着するどころか、名古屋の朗読会も半分までしか進行していない……)

 「紙媒体」での仕事、何より「紙の本」の作業も、むろんなんとかしなければならない。

 もともと、今春まで予定していたそれらは、当然のことながら3月11日以後の事態に、巨きな影響を受けざるを得なくなった。
 当初、構想していた刊行計画には少なからぬ変更が生じ、いまはこのブログをいわば一種の「底本」として、それらを再編成した書物を準備中であり、それが『原子野のバッハ』という題名を持つことも、当ブログをはじめ、すでにあちこちで予告している。

 これは、むろん単に当ブログを再構成した、というような単純な作り方をするつもりはない。むしろ、18冊目の単著に当たるそれは、私の著書のなかでも、その方法・形式を含め、空前の1冊となるだろう。
 (強いて言うなら、『星屑のオペラ』が、これに近い性格のものとは見做せるかもしれない)

 そして私自身の最重要の課題として、言葉の本来の意味での長篇小説の制作という、一種超歴史的なそれがあるのだが——。


 1つだけ、少なくともこの心ならずも始めたブログなるものから、私のそうした中核的な作業にも還元されてくるものがあるとすれば、それは表現ないしは藝術という営為の無償性に関しての、これまで以上に徹底した、生の時間を削りつづけた果てに逢着する覚悟のごときもの、ということになるだろうか。

 そうした認識だけは、このかん——かつて十代の頃、明確な自覚もないまま持っていた時期とは別の形で、たしかに生成されつつあるようだ。







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by uzumi-chan | 2011-09-01 22:15 | 【B】帯電した、巨きな雲が……

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