『鳥の歌』から始まる物語 絵本『さだ子と千羽づる』(第16信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために——


『鳥の歌』から始まる物語 2011年8月3日〈5〉




 長谷川千穂さんの勤務する病院で、朗読会の会場に充(あ)てられた狭からぬ会議室に、その宵、集っていた参加者は、およそ40名ほど。
 整然と並ぶ長机の上には、すでに東京から昨日のうちに宅配便で送ってあったチラシも、段取り良く配布されている。

 (これはもともと、広島・平和記念公園での朗読会の際、聴衆に手渡すため、毎年2000~3000枚ほどが印刷されるそれの今年の分だった。今回の内容については、当ブログ〔絵本『さだ子と千羽づる』〕第9信《今年も広島で朗読会》同・ 第10信《絵本『さだ子と千羽づる』を世に送り出した、私たちからのアピール》を参照されたい)

 時刻は、すでに18時半をかなり廻っている。

 本来なら、 18時20分に始まっているはずの私たちの朗読会なのだが、先行する講演会が大幅に喰い込み、時間がない(私自身は一時、朗読会そのものの実現すら危ぶんだほどだった)。
 ——たとえ朗読会それ自体はなんとか出来たとしても、前後になんらの説明もなく、ただそれが行なわれただけ……という結果になることは、私としては極力、私は避けたかった。

 やむなく――両側に椅子・テーブルが並んだ中央の通路を、チェロと弓を抱えて前方によたよたと移動する、その段階から……すでに口を開き、マイクなしの肉声のまま、5分間だけと前置きしてスピーチを開始する(所定の位置に着いてほどなく、どなたかがマイクを手渡してくださった)。

 話したのは――。


 福島・東北方面はもとより、関東圏・東京や横浜でも、放射線の空間線量は 0.15~0.2μSv/hと、文部科学省の発表などより、はるかに高いこと。

 いまから朗読される、この絵本『さだ子と千羽づる』を構想したSHANTI(旧「絵本を通して平和を考えるフェリス女学院大学学生有志」・現「絵本を通して平和を考える会」)の湯浅佳子さんと出会ったのは、93年晩夏、当時フェリス女学院大学学長だった弓削達さんに紹介されてのことで、もともと弓削氏とは、オーロラ自由アトリエ・遠藤京子さんの発案による弓削達氏と森井眞(前・明治学院大学学長=当時)との対談『精神と自由』(1992年刊/オーロラ自由アトリエ)をきっかけとして知り合ったこと。

 さらにそれは、昭和天皇死亡の際の文部省(当時)の服喪指示に対し、「大学の自由」「精神の自由」を標榜して抵抗した両氏への共感に由来する企画であったこと。

 そうして知り合った湯浅佳子さんやSHANTIのメンバーたちと、1993年から94年、優に丸1年の歳月を費やし、学習会と討議を重ねて出来上がったこの絵本『さだ子と千羽づる』は、広島・平和記念公園に立つ「原爆の子の像」との関連で世界的に知られた佐々木禎子さんのエピソードに依拠しつつ、しかし単に核兵器の惨害ばかりでなく、その「前史」としての日本のアジア侵略・戦争責任をも踏まえ、歴史における「加害」と「被害」の関係を構造的に闡明(せんめい)するという意味で、後にも先にも類書に例を見ないものであること。

 無批判な情緒主義や曖昧な没歴史主義に、絶対に溶解しない、そうした絵本『さだ子と千羽づる』は、一方で刊行当初からさまざまに高い評価を受けながら、もう一方では重層的な困難につねに直面しつつ、現在にいたっているものであること。

 そして本年3月11日、東京電力・福島第1原発事故が発生して以降の日本で、とりわけこの絵本『さだ子と千羽づる』の持つ意味は、たとえば晩発性放射線障害に関して、当初から精確無比な記述が、しかも子どもたちにも解りやすい形でなされていることを含め、さらに新たな意味を帯びつつあること。

 現在、鍼灸師として横浜で活動する湯浅さんは、かねてチェルノブイリ原子力発電所事故で被曝した子どもたちの治療と症状緩和のため、現地に赴きたいとの願いを持っていたものの、今回の事態を受け、福島の子どもたちにも手当てをしなければ——との思いに駆られていること。

 長谷川千穂さんは、初めて知り合った直後、7年前から、広島での私たちのこの絵本『さだ子と千羽づる』の朗読会に、毎年、参加し続けてくれていること。

 彼女の朗読は、子どもたちからいつも絶大な支持を受けていること。

 当初、ご家庭の事情(お子さんの急病)で参加が危ぶまれた湯浅さんも日帰りで、そしてむろん長谷川さんも参加してくれる、明日からの広島での朗読会は、18年目となる今年、いよいよ特別の意味を持つであろうと私たちが考えていること——等等。


……このかん、チェロの最終セッティングや、椅子とエンドピンの挿し位置の関係、右腕を動かす空間の確認等、演奏環境の確保も同時に進めながら、それらを、一気に話す。
 所要時間、ほぼ4分30秒。

 あらかじめ用意していたすべては、到底、しゃべれず、内容的には3分の2ほどまでに留まった。
 だが、それでも朗読だけとなってしまう事態はなんとか防ぐことができたとは言えるだろう。


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             (写真撮影/Y・Yさん)


 すでに椅子の上に絵本『さだ子と千羽づる』の拡大パネルが置かれ、スタンド・マイクを前に、長谷川さんの準備も調(ととの)っている。

 長谷川さんと、短くアイ・コンタクトを交わし……私は、伴奏の冒頭に置いたカタルーニャ民謡『鳥の歌』(パブロ・カザルス編曲)の出だし、ド―ミ―ラ―ド―ミ―ラ―ミ、と……深い瞑想から、2オクターヴ半を消え入るように上昇してゆく、緩(ゆる)やかな分散和音を弾き始める。

 そこに被(かぶ)さるように、

 「これから、絵本『さだ子と千羽づる』の朗読を始めます」

 中学のクラス委員長のように、はきはきと、一種無防備とすら受け取られかねないまでに飾り気のない、簡潔な口上は、いつもの平和記念公園での朗読とそっくり同じ、長谷川さん独特のものだ。


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             (写真撮影/Y・Yさん)



 ——後から長谷川さんに聞いたところ、この場には、病院の医師や看護師、リハビリ担当者や事務職員ばかりではなく、退院後、通院している患者といった立場の人びとも居合わせていたらしい。

 私は――むろん予期していたこととはいえ――さきほど階下のカフェでお会いしたY・Yさん同様、この会場の司会ご担当者たちからも、彼女が「長谷川先生」と呼ばれていることに、少なからず清新な印象を受けた。
 一方――人びとの見知っている、その新任の研修医の「長谷川先生」が、しかも単に院内でカレーや豚汁を作って販売するのに留まらず、今度は東京からやってきたという怪しげなチェロ伴奏者を従え、反核平和絵本の朗読まで始めてしまったのだから、関係者の驚きは目を瞠(みは)るものであったにちがいない。

 ——しかもその朗読たるや、“ハーメルンの笛吹き”的吸引力を具備した、それである。
 (詳しくは、当ブログ〔絵本『さだ子と千羽づる』〕第15信《人が「変わらない」ということの意味》を参照)

 この会場に入る際、私はいつも持っているカメラをY・Yさんに託し、撮影をお願いした。

 私自身、長年、親しんできたフィルム・カメラをデジタルのそれに切り替えたのは世紀の変わり目の頃だから、「銀塩」を離れて、すでに久しい。
 さらに時を経るに従い、機器の選択はますます安易になり、現在の使用機に到っては、一昨年晩夏からのロンドンとの往復生活の最初に、柴崎コウの宣伝していた富士の「料理を撮るならコレ」とかいうカード型カメラを飛行機のなかで釈然としない形で紛失して以来、愛用しているSONYのCyber-shotである。――名刺大ほどもないポケット・カメラで、V6の岡田准一が宣伝しているという安直品の極みである。
 にもかかわらず、これを選んだ理由は、現在世界にあるデジタルカメラのなかで唯一、カール・ツァイスのレンズを装着しているという一事に尽きる。
 この一見、玩具のようなポケット・カメラで、ここ1年10箇月ほどのあいだにもう6万~7万齣(こま)を撮影しているが、仕事でカット写真として使用するような場合を含め、まずまず満足している。
 そもそも写真は、撮る側も撮られる側も、なるべくカメラを意識しないものが良いのだ。カメラを媒介にせず、直接、視覚をそのまま定着できるならそれに越したことはないので、このあたりは「音楽」と「楽器」、「絵画」と「画材」の関係に、実はある意味で似ているといえなくもない。
 何を撮るかが最も重要で、どう撮るかは二の次、さらに何で撮るかは、とくにデジタル・カメラとなってからは私にはまったくどうでもよく、いよいよとなったらiPhoneのカメラでも、そこそこの写真を撮る自信はある。

  もともと私は、ライカ系のレンズは好まず――それよりは、ニコンの方がずっと良い――銀塩写真の時代は、もともと写真を能くしていたオーロラ自由アトリエの遠藤京子さんの影響で、もっぱらツァイスのレンズの使えるCONTAX製品ばかりを使ってきていた。

 
 したがって、今回の病院での朗読会の写真は、最後の1齣の窓外の風景を除き、すべて、この名刺大のSONY Cyber-shotを託したY・Yさんの撮影になるもの。
 それらを、当ブログへのアップロードにあたり、私がトリミングの上、 Photoshopで補正したのだが——この撮影の次の夜、広島での夕食のさなか、カメラをiPad 2につないで確認したところ、期待していた以上の出来栄えに驚いた。むろんこの機種を初めて手にされたY・Yさんだが、ほとんど棄てカットというものがない(結果として、予定より多くのカットを使用することとなった)。
 つくづく、写真もまた、知識でも、経験ですらなく——センスの問題なのだと痛感する。

 絵本の流れ、そして何より、この一夕の感銘深い朗読会の記録として、佳い写真を撮影していただき、お願いして良かったと、改めて思っている。


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             (写真撮影/Y・Yさん)


                                   〔この項、続く〕










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by uzumi-chan | 2011-08-20 23:21 | 絵本『さだ子と千羽づる』

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