「1969」の42年後に—— 東京電力・福島第1原発事故(第85信)


すでに「取り返しのつかぬ今」を
もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、
それでもなお、あの愚者たちに殺されないために……


「1969」の42年後に——「注水」は、本当に続行されていたのか? 〔前篇〕



 
 基本的に、何物(何者)をも「信用」しない性分だということは、ある。
 そもそも「信ずる」(「信じる」)という言葉自体の抱え持つ判断停止……主体性抛棄の自己陶酔と対象への全面的な委任が、厭でたまらないのだ。また、対象が仮に現実の「人」であったりする場合——その相手に対する押しつけがましさ、相手を束縛して迷うことのない厚顔無恥な気分の漲った語感が。

 (……と、そんなことを言ってみつつ、しばしば自分が迂闊にも何事かを信じ込んでしまい、それによって苦い思いを味わわされるということも、実は私自身、まったく皆無というわけではないのだが)

 しかし、それにしても——少なからず、呆れれざるを得ない。
 今回の、人倫の底を踏み抜いたがごとき虚偽と欺瞞とに充ち満ちた東京電力・福島第1原発事故をめぐる事態のなかで、なおまだ、かかる胡乱な「美談」に手もなく丸め込まれ騙される人びとが少なからず存在するという事実に。
 このかん、東京電力や菅直人政権、経済産業省やその他もろもろの頽廃を糾弾してきたはずの、決して「制度圏」のそれではない、むしろ「在野精神」(??)の所有者を以て任じてきたはずのジャーナリズムまでもが、かくも易やすと。

 何の話か? 

 3月12日の宵、福島第1原発でいったん始められた「海水注入」が1時間弱にわたって「中断」した、その責任は誰にあるのかと、谷垣禎一や安倍晋三らがさんざん騒ぎ回った揚げ句、結局、最後の最後になって、吉田昌郎・福島第1原発所長が独自の判断で実は注水を継続していたことを“告白”し、その結果、最悪の事態が回避されたとの結論に逢着した、という件だ。


 《福島第一原発1号機で大震災発生翌日の3月12日夜に原子炉への海水注入が一時中断したとされる問題で、東京電力は26日、実際に中断はなく、注水を継続していたことが分かったと発表した。社内の協議で中断を決めたが、第一原発の吉田昌郎所長が冷却による安全確保を優先し、注水継続を判断したという。
 問題が表面化した今月21日以降、東電は社内調査を進め、吉田所長から24、25日に事情を聴いて注水継続が判明した。26日に記者会見した武藤栄副社長によると、吉田所長は新聞報道や国会で中断が話題になり、国際原子力機関(IAEA)の調査も予定されていることから「事実に基づいて検証がなされるべきだと考えて報告した」と説明したという。武藤副社長は報告遅れを理由に吉田所長を処分する考えを明らかにした。
 東電によると、1号機で真水注入が止まり、首相官邸で午後六時から海水注入による再臨界の危険性と対策を議論し、東電側に注水の準備を指示。東電側は「準備でき次第注水する」と理解し、午後七時すぎに注水を始めた。しかし、同25分ごろ、官邸にいる元役員から東電本店に「(菅直人)首相の判断がなければ、海水注入できない雰囲気、空気を伝えてきた」(武藤副社長)という。
 清水正孝社長や吉田所長らがテレビ会議で対応を検討し、官邸の判断を待つために注水の一時中断を決定。吉田所長から注水を続けるべきだとの意見は出なかったが、実際は独断で注水を続けた。
 政府からの海水注入の指示を受けた後、第一原発から本店に「海水注入を再開」と事実と違う内容を記した文書で連絡が入った。経済産業省原子力安全・保安院にも同様の報告がなされており、西山英彦審議官は「事実と異なる報告がされていたことは遺憾。法的に問題となる可能性もある」とコメントした。》
 (『東京新聞』2011年5月27日付朝刊/数字は原文、漢数字)

  http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011052702000016.html


 しかも、これにはさらに、先般、いまになって何の寝言をほざいているのかとしか言いようのないメルトダウン(炉心溶融)の事実認定に際し、日本国民というより、全人類を愚弄しているとしか言いようのない無礼・無様な記者会見を平然と行なって見せた東京電力副社長・武藤栄(現在、6名もいる副社長の序列としては、末席)により、吉田の「処分」が示唆される、という「おまけ」までつく。

 ——ただし、武藤は「注水」を続行した吉田の判断それ自体は是としており(そのこともまた、次項で述べるつもりであるが、いささか奇妙な話なのだ)、ここで「処分」の可能性を仄めかしたのは、あくまで、当の「注水続行」の事実そのものの報告が遅れた点についてのみであることは、注意しておく必要があるだろう。

 なお、今回5月17日の開き直りとも見える嘲笑を浮かべつつ行なった「英語で言えばメルトダウン」会見をはじめ、福島第1原発事故の発生当初から、その傲岸不遜・傍若無人なキャラクターが、まさしく核公害企業・東京電力の人格的表徴であるかのようにも受け止められてきた武藤の、1950年東京生まれ、74年に東京大学工学部を卒業後、ただちに東京電力に入社、終始、「原子力畑」を歩み、94年から3年間は福島第1原発技術部長……という経歴は、その内容と時代状況との関連において、さまざまに思うところがある。

  彼がテレビに出てくるたび、私は往年の時代劇で山形勲(1915〜96年)が演じた悪代官や悪徳商人を髣髴(ほうふつ)させられる思いがする——。
 (ただし、私は山形という役者自身は、嫌いではない)



 武藤が、文字通り、東京電力の原子力政策の“第一人者”であるという事情が再確認されるばかりではない。
 おそらく70年に東京大学理科Ⅱ類に入学しているという一事を見ても、これは私からすれば、讀売ジャイアンツ・ファンであることとすら比較にならぬほど(当ブログ〔東京電力・福島第1原発事故〕第61信《脇谷は「捕球」していたのか?》、参照)、その当人の思想信条・生き方の凡(おおよそ)を集約的に現わしている事実だ。

 たとえば「安田講堂」占拠や、それに引き続く1969年の東京大学入試中止という「闘争」を担ってきた側が阻止しようとしたものが、今般の東京電力・福島第1原発事故に到るような日本の支配層の「解体」であったとするのなら、その後に無人の野を往くがごとく、彼らが否定した価値体系領域におけるキャリアを軽がると積み上げてきた武藤らに代表される人びとによって、日本支配層は脈脈と維持され、結局、為す術もなく今回の全破滅的事態が惹き起こされてしまったことについてのみいうなら、彼ら、私に先行する世代の最も良質な批判精神の持ち主たちの闘いは、とりあえずは全面的な敗北に終わった、ということになるのだろう。

 (付言するなら、だが、それでは武藤らが「勝利」したのか——誰か「勝者」がいるのかは、むろん、別の問題である。
 さらに言うなら、「勝者」が存在しようのないのが核破滅なのだという自明の定義も持ち出せよう。
 そしてその文脈において、当初、真摯に闘った人びとの敗北はより重層的に痛いたしいものとなり、それを傍観した人びとの責任は、より重大なものとなる——)


                                   〔この項、続く〕






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by uzumi-chan | 2011-05-28 16:34 | 東京電力・福島第1原発事故

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