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すでに「取り返しのつかぬ今」を もはや「取り返しのつかぬまま」見据えながら、 それでもなお、あの愚者たちに殺されないために…… 「『この世の終わり』の後の日本で——偽りの希望を拒否して携えるべきもの」——月刊『ミュージックマガジン』6月号にエッセイを寄稿 真に明るいものは、むしろ現象的には暗いと見えるもののなかにあり、真の希望は冷静な絶望によって試された先にしかない。 ——これは、私が35年ちかくにわたって、さんざん言いつづけてきたことだ。 私の著作を読んでくれている方がたにとっても、すでに事新しくもない基本テーゼのごときものの1つであると思われるにちがいあるまい。 しかしそんな私も、今回ばかりは、電子メイルにPDFで添付されてきた校正刷を見て、そこに漲るあまりの展望のなさ、「希望」の乏しさに、自分自身、いささかならず茫然とする思いがしたことだった。 このほど、月刊『ミュージックマガジン』6月号(ミュージックマガジン社)に、請われて、東京電力・福島第1原発事故に関する短いエッセイを寄稿した。 今回の事態の後、私が紙媒体に発表する初めての論攷である。今月17日に発売されており、現在、店頭に並んでいるはずである(ただし、上記リンク先のサイトの内容紹介には、小文ほか、非音楽系の記事については表示されていないが……)。 ——同誌の存在が私自身の視野に入ってきたのは、もともと90年代の半ば過ぎのことである。 当時、私が月刊『世界』(岩波書店)で連載していた“ヴァラエティ・エッセイ”(*)形式の同時代批評『虹の野帖』で、「某“真理教”問題」(**)をめぐり、これほど明明白白な政治的戯画——輿論操作の欺瞞に関して、ただ一人として、まったく誰も言及しようとしない——いわば言論の集団催眠状態に陥っている日本の愚かしくもぶざまな状況を、前後2回に分け、批判した(***)のがきっかけだった。 その論攷について、『ミュージックマガジン』を主宰される音楽批評家・中村とうよう氏が、同誌での御自身の連載コラムで評価してくださっている旨を人伝てに聞き、その炯眼に瞠目したのがきっかけである。 (ただそれ以前から、既成の言論の制度・既存の「大出版社」等の欺瞞に対し、率直な発言を続ける氏の姿勢については、“これが批評における「ロック」というものか”といった感慨を覚えることはありはしたものだったが——) ちなみに、いまなお私は中村氏と、直接の面識はない。 * 80年代前半の『星屑のオペラ』(1985年/径書房刊)を嚆矢(こうし)とし、上述の『虹の野帖』や、季刊『批判精神』(1999年〜2001年/オーロラ自由アトリエ発行)連載の『冬の言葉』その他を貫いてきた、私の散文表現全体に及ぶ、ある方法・形式。 実は、当ブログ『精神の戒厳令下に』もまた、インターネットという領域における新たなそれに当たるものとも言えるかもしれない。 ** この不潔醜悪愚劣な擬似「宗教」集団(その実、おそらくは90年代日本において全社会的反動化を推進する素地を準備した、最も悪質な政治的別働隊組織)を、彼ら自身が標榜する、その「オウム」なんとやらという名称で呼んでやること自体、屈辱であり、またその策動に結果として加担するものであるという立場から、私はこの“教団”に対しては、基本的に「某“真理教”」の呼称を用いることが多い。 なお「戦後日本」という欺瞞にとどめを刺す可能性を帯びて現われるであろう、かかる擬似宗教的政治組織として私は、1977年以降、20代の大半を費やして書き上げた“ポリティカル・フィクション”たる長篇小説『旅する人びとの国』上下巻(1984年/筑摩書房刊)で、すでに《世界破滅促進会議》なる「教団」を造形、提示している(『旅する人びとの国』上巻・第1部「天使」第2篇「冬の終わり」第5章「湖のある町へ」以降)。 *** この2篇の論攷は、拙著『宮澤賢治伝説——ガス室のなかの「希望」へ』(2004年/河出書房新社刊)の第Ⅱ部「自己犠牲という名の欺瞞」中、「某“真理教”論議に欠落しているもの」「この“戦争”は『宗教戦争』でも『革命戦争』でもない」の2章として収録されている。 とりわけ後者における考察は、シモーヌ・ヴェイユ批判を基軸とした宗教批判を前提とした上で、しかも某“真理教”がし「宗教」ですらないことを立証するものである。 今回の月刊『ミュージックマガジン』の原稿依頼は、昨年、同誌で私がいささか特異な英国生活に関し、綴った数篇の草稿のうちの1つ——「静かな祝祭の都、秋へ——ロンドンに息づく『相互扶助』と『連帯』の精神」(月刊『ミュージック・マガジン』2010年9月号)を掲載してもらうに際し、お世話になった編集部のKさんから受けたものだった。 このかん、3月下旬以降、ほぼ1箇月半にわたり、もっぱら当ブログでの表現に集中してきた私にとって、紙メディアにおいて現状をどう書くか——それ以前に、ブログと紙メディアとを、いかに並立させてゆくか。その関係においても、1つの「呼吸」を摑むという、貴重な経験をさせていただいたと思っている。 (このKさんを含め、気がついてみると、いま私がお世話になり、また関わりを持っている編集者は、おおむね30代から40代前半にかけての年代となっており、いつのまにか、私よりはるかに年若い人びととの共同作業が増えている。美術館のキュレーターや放送関係のディレクターいった立場の人びとも同様だ。考えてみれば、20代の初めから、35年ちかくも文筆業を続けている以上、当然のことかもしれないが……) 《暗い春が、夏へと移ろうとしている。 万一、起こったなら、それはとりもなおさず「この世の終わり」にほかならなかったはずの——そんな事態が、しかしほんとうに起こってしまった。危惧されたすべての可能性に数倍する絶望的な規模で、いともあっさりと。 すなわち、いま私たちは「この世の終わりの後」を生きているのだ。 どうすれば、いいのか?》 (山口泉「『この世の終わり』の後の日本で——偽りの希望を拒否して携えるべきもの」/月刊『ミュージックマガジン』2011年6月号、赤字部分は原文・傍点) 今回の月刊『ミュージックマガジン』のエッセイは、全体でたかだか1600字ほどの短い文章だが、ある意味、当ブログ〔東京電力・福島第1原発事故〕カテゴリー80篇余のエッセンスのすべてが凝縮し、さらに現状の絶望が直截、投影されたものともなっている。 その短文を構成する1文字1文字が、逃れようもなく、フクシマからの放射線に被曝している。 私自身、まったくやりきれない。救いがない。 そしてその救いのなさにおいて——逆説的に言うなら、私自身は——唯一、表現者としての責務を果たすという救いを見出そうとしもている。 《すでに世界は、まぎれもなく変わったのだ。取り返しのつかないことが、惹き起こされてしまったのだ。 今後、私たちは二度と、これまでのような形で未来を、人生を、希望を、幸福を語ることはできない。いま安易に喧伝される「復興」や「再生」というスローガンの、なんとおぞましいまでに空疎なことか。欺瞞的なことか。》 (前出・山口泉「『この世の終わり』の後の日本で——偽りの希望を拒否して携えるべきもの」) かくまで救いのない文章を書いたのは、私自身、35年に及ぶ文筆家生活で、もしかしたら初めてかもしれない。 (それがしかも小説ではなくエッセイにおいてであるということに、さらに私自身は別の巨きな意味も見出している) だが——現実がここまで重層的に絶望的であるとき、絶望を書く以外の何が、「作家」にとって残されているだろうか? この時代に生き合わせた文学者として——敢えて、そう自己規定しておく——1つの責務を果たしたことを感じている。 同誌に謝意を表したい。 《このかん、アジアやヨーロッパの友人たちが、心配して、私にメイルをくれる。彼らに共通するのは「日本は広島・長崎を経験していたはずなのに、なぜ、こんなことに」という慨嘆だ。 だが実は、それは少しだけ違う。厳密に言うなら、日本は、広島・長崎を経験しているはずなのに——にもかかわらず、このような国でしかなかったからこそ——とうとう、こうなった。》 (前出・山口泉「『この世の終わり』の後の日本で——偽りの希望を拒否して携えるべきもの」/赤字部分は、原文・傍点) もはや日本に、これまでのごとき意味での「希望」はないのだ、ということ。 実は世界は、ある意味ではすでに元には戻らないのだ、ということ。 その自明の理が分からぬ手合いが、現状の絶望に付け込もうとしている。 物質の「復興ビジネス」はまだしも「精神の復興ビジネス」に卑しい「ビジネス・チャンス」を求めて、早くも蠢(うごめ)き出している……。 《いかにのたうち苦しみ悶えようとも、もはや「希望」はどこにもない。では、何か、それに代わるものはないか?》 (前出・山口泉「『この世の終わり』の後の日本で——偽りの希望を拒否して携えるべきもの」) ……現在、発売中の雑誌であるにもかかわらず、同誌の御厚意で、小文の一部を当ブログにも引かせていただいてきた。 それでは、私がいま「希望」に代わるものとして措定するのは何か? これについては、とりあえず同誌をお手に取っていただければ幸いである。 * 当ブログのすべての内容の著作権は、山口泉に帰属します。 * 当ブログの記事を引用・転載されるのは御自由ですが、出典が当ブログであることを明記してください。 * 当ブログの記事を引用・転載された場合、ないしは当ブログへのリンクを貼られた場合、お差し支えなければ、その旨、山口泉まで御一報いただけますと幸いです。 ★ 山口泉ウェブサイト『魂の連邦共和国へむけて』は、こちらです。 http://www.jca.apc.org/~izm/ by uzumi-chan | 2011-05-22 20:37 | 東京電力・福島第1原発事故
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